ふつふつ、浮き上がり始めた泡を見つめながら、ずいぶんと静かだなと思った。溶け込んだ日常は、なくなったときに初めて気づく。なんて大げさだけれども。いっしょに住んでいる相手の生活音は、心地よいものだったのだなと思う。ぶくぶくと水泡が大きくなってきたのでレトルトパウチを鍋に入れ、手順どおりタイマーをかけた。皿を出しておかなければ。
めずらしいことに、倉持が熱を出した。金曜の夜に頭が痛いと言い出して、その時点でかなりめずらしかったので熱を測ると三十七度と半ばあった。普段の平熱も高めらしいので大したことないとは言っていたが、ちょうど休みなのだから安静にしない理由もない。出かける予定もなかったし。お互い、これといって体調を崩したことはなかったのだが、倉持のほうは最近環境が変わったりいろいろあったので疲れが出たのだろう。
『おきた』
『どんな調子?』
『だいぶ楽』
『よかった。お粥食べる?』
『たべる』
『すぐあっためるから待ってて』
改めて、いっしょに住んでいてよかったと思う。こうして「なんかあったらすぐLINEして」と気軽に言っておける。タイマーを止めて、冷蔵庫から冷えピタとプリンも出しておいた。
「うわっ、プリンもある!」
「いや興奮するなよ」
昨晩、今朝とそれなりにぐったりしていたのに部屋に入るなりこのテンション。現金なやつだ。ぐっすり眠ったのがよかったのかもしれないが。
「無理でしょ~すげぇ嬉しい。亮さんのそういう優しいとこマジ好きっす」
「……大げさ!」
真正面から褒められるのに弱い、という亮介の性質をよく知っているはずだが、倉持は上機嫌で「優しいなー」と連呼していた。普段なら一発チョップを喰らわすだろうが相手は現在病人だ。それなりに回復しているとしても。あとで覚えておけよ、と心の中でつぶやくに留める。
「お粥ってなんかめちゃくちゃうまく感じません?」
「食べる頻度が少ないからじゃない」
あとは、こういう弱っているとき(すでに弱ってなさそうだが)に食べるからか。作るという選択肢もなくはなかったが、失敗したら目も当てられないのでお粥は倉持が寝ているうちにレトルトを買いに行った。薬と冷えピタ、プリンやアイスもそのついでに。
「ごちそうさまでした」
お粥もプリンもぺろりと食べきり、倉持はかしこまって手を合わせる。今朝からなにも食べていなかったとはいえあっというまだった。食欲が戻ったのならなによりだ。
「冷えピタ替える?」
「替える」
「熱は?」
「ほとんど下がったけど、冷たいのきもちーし」
「貼り替えてやろうか」
「マジ? 至れり尽くせりだなぁ」
「お粥もあーんして食べさせてあげたほうがよかった?」
「いや、それはハズいので……」
相変わらず恥のポイントがよくわからなかった。だけど、こうして他愛のない会話ができるのはほっとする。いくら倉持本人が大したことないと主張したって、それが真実なのか亮介には判断できない。信じてはいても、最悪の想像をせずにいるなんて無理だ。もし悪化したら。大きな病気だったら。そんな不安が、身体の奥で冷たく重くなるのを感じていた。決して口にはしなくても。
キスしたいな、と思った。冷えピタを貼るため、手で前髪が上げられたまるいおでこに。目を閉じられたから余計にそう感じたのかもしれない。相手は病人、と心でまた唱える。
「じゃあ、またなんかあったら呼んで」
念のため薬を飲むところまで見守ってから立ち上がると、倉持が「え」と声を出した。明らかに落胆を含んで。しかしすぐ、自分でもしまったというように気まずそうに目を逸らす。
「なに?」
「いや……」
「もうちょっと寝てたほうがいいだろ? ゲームするなよ」
「しねえっすよ……」
逆か。するつもりなら喜んで見送るだろうし。なんとも歯切れが悪い。なんだろう、どこかで経験したことがあるシチュエーションな気がするのだけれども。
「眠れるまで手ぇつないでてあげようか?」
思い出した、幼いころの春市だ。風邪の治りかけ、久しぶりに顔を見せると「りょうちゃんいかないで」とぐずぐず泣いていた。遠い、なつかしい過去。
どちらかといえばからかい半分で、さっきみたいに「それはハズいんで」とかなんとか断るだろうと踏んでいたが、倉持は「うん」とだけ答えてもぞもぞ頭まで布団をかぶった。掛け布団の隙間から、にゅっと左手が出てくる。
ああ本当に、どうしてやろうか。
指と指を絡ませてつなぐ。ぎゅうっと握ってくる手が、幼い春市と同じように「行かないで」と泣いているみたいでいとおしかった。
いつ、なにが起こるかなんて誰にもわからない。ひとり残されること、ひとり残してしまうこと。それ自体はどうしようもなく恐ろしくても、同じように憂いていたのが、伝わってきたのが嬉しかった。
好きでよかった。いっしょに生きていてよかった。だってもう、この身体がそばにいない人生なんて考えられない。
手の甲に頬擦りして、なにもついていない薬指に口づける。おやすみ、とささやくとまた「うん」と返された。かわいいな、照れちゃって。先刻こちらが照れさせられたのは、これでおあいこにしてあげよう。
静けさがいまは心地よくて、亮介もそっと目を閉じる。
fin.

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