――あとでふたりになったとき、またキスしてもいい?
と言われたことで、あれも夢じゃなかったのかと思った。お互いに起こった不思議な出来事を答え合わせしていく中で、最後の出来事だけは、なんとなく避けてしまっていたので。
返事をしそびれてしまったまま、改札を通り、車に乗り、家へと帰り、あとは寝るだけで、気づけばふたりきり、だった。
「その、さっき言ったこと……覚えてる?」
膝同士がふれ合う。風呂上がりだからというのを差し引いても、体温は高かった。周りには誰もいないし、普通の音量で話しても他の部屋には聞こえないのに、内緒話をするように近い距離でささやかれる。
改めて、こんなに近くにいていいのかと感慨があった。これまでも遼平はパーソナルスペースが狭いほうだと感じることはあったが、それだけでは説明できない距離だということは、わかっている。
頷いたけれど、目は合わせられない。
「……いや?」
その声は、普段の穏やかで優しい響きだった。だけどひとつでも答えを間違えれば、たちまちこの距離がなかったことになりそうなほど、臆病にも聞こえる。どうしても言葉に詰まり、それからわずかに首を横に振る。
「い、やじゃない……」
そう答えるのが精一杯だった。こんなにはっきりと物を言えなくなることがあるだなんて。
手が、顔のほうへ伸びてくる。目線を上げると、嬉しそうな、それでいて熱っぽい瞳に捕えられた。指の背で頬を撫でられる感触がくすぐったいような心地よいような感覚をもたらす。思わず目を閉じてしまいそうになったが、それはなんだか違う気がして、ただじっと見つめた。
「じゃあ……するね」
遼平の手が顎にふれ、わずかに顔を上向かせる。あ、と思ったときにはもうくちびるが重なっていた。やわらかくて少しかさついた感触が生々しくて、頭がくらりとした。
さっき(と言っていいのだろうか)初めてしたときは、周りの環境に現実味がなくて夢かもしれないと思ったから、あんなに自然に受け入れられたんだなと思った。いま、ここは間違いなく現実で、普段自分が過ごしている部屋なのに。
キスをしている。好きな相手と。
鼓動の音がうるさくて、だけど自分のものなのか相手のものなのかはわからないままキスが続いた。また舌がふれ合った瞬間はさすがに緊張が走ったが、それは本当に一瞬だけで、すぐに離れてしまったので名残惜しいような気分になった。
「愁くん、かわいい」
「かわいくは、ないよ……」
「かわいいよ。いつも思ってんのに、ちゃんと言えなかったから」
遼平はそう言いながら(なんだか聞き捨てならないことを言われた気がする)もう一度顔を寄せてきた。くちびるがふれる直前に目を閉じると、すぐにまたキスをされる。さっきよりも長くて深い口づけだ。
遼平の舌が愁のそれを絡めとり、上顎をざらりと舐められると背筋がふるえた。
「んっ……ふ……」
くぐもった声が自分の口から洩れているのが恥ずかしくなったが、遼平はそれをからかうでもなく、むしろ煽られているようにさらに深く口付けてくる。口腔内を隅々まで探られ、混ざり合った唾液を飲み込むと頭がくらくらした。
やがてゆっくりとくちびるが離れていったので瞼を開けると、じっとこちらを見つめる瞳と目が合う。そのまなざしに熱が灯る。同じようになってほしくて見つめ返すと、また顔を近づけてきた。
今度は舌から割り入ってくる。その感触にぞくりとしたものを感じながら、自分からも舌を差し出した。するとすぐに絡めとられてしまい、吸われたり甘噛みされたりする。その、自分の身体の一部を好き勝手にされる陶然といったらなかった。
いままで経験したことのない感覚だった。初めてキスをして、舌同士をふれ合わせただけであんなに気持ちよかったのに。いまはこんなにも深いキスをしている。なのに嫌な感じはまったくせず、むしろもっとしていたいと思ってしまうほどだった。
「ん……」
遼平が息継ぎをするような声を洩らすのを聞いて、つい身体を離そうとした。だがあちらは離れる気はないようで、そっと腕を引かれる。そしてもう一度くちびるを重ねた。今度はふれるだけのキスをしてからゆっくりと顔が離れる。至近距離で見つめ合うと、互いの熱い吐息がわだかまる。
「すごいね」
「うん……」
短い言葉を交わすだけで精一杯だった。心臓がばくばくと鳴っていて、周りの音が聞こえないほどだ。こんな状態になったのはいつぶりだろう。それとも初めて? 悠長にそんなことを考えているいとまもなく、伸びてきた手が髪にふれた。頭を撫でながら耳にふれる。くすぐったくて身をよじると、捕まえるように抱きしめられた。
「もっとしたい」
耳元でささやかれて、背筋に言いようのない痺れが走る。それは快感に近い感覚だったが、恐怖も入り混じっているように感じられた。このまま進んでいってどうなるのかわからないという不安があったからだ。だがそれ以上に好奇心もあったし、何より自分自身がその先を望んでいることに気がついていたから抗えなかった。
指同士を絡めるように握られる。やっぱり、ふれ合う先から鼓動の音が伝わっているのではないかと心配になる。
「もっと、って……?」
野暮だとわかっていても、訊かずにいられなかった。遼平は少し困ったような笑みを浮かべながら、空いているほうの手で腰のあたりを撫でる。
「こことか」
「っ……」
布越しとはいえ、そのさわり方は妙に艶めかしくてぞくぞくした。なんだかいやらしくて恥ずかしいことだという感覚があったけれど、それは決して不快ではない。ふれ合った部分が熱いような気がする。もっとその熱を感じたいと思ってしまうほどに。
自分からも手を動かそうとしたが、寸前になって躊躇してしまった。そのためらいを感じ取ったのかはわからないが、遼平はこちらの手を取り、自分の背中に回させた。そして再びぎゅっと抱きしめてくる。
「愁くん」
熱っぽい声で名前を呼ばれ、もう一度キスをされる。すぐに離れて、またふれ合わせる。くちびる同士で食み合うようにしたり、ちゅっと音を立てて吸われたりするのが気持ちよくてたまらない。
「ん……ぅ……っ」
舌を差し込まれ、歯列の裏側を舐められるとそこから溶けていくんじゃないかと思う。口腔内を探られるのはもどかしいような感覚があったが、それ以上に気持ちよかった。口の中とは、こんなに敏感な部分だったんだな、と思うくらいだ。
「気持ちいい……」
まだふれ合う距離で、遼平がこぼす。その声はかすれていて、先ほどまでとは違う聞いたことのない響きをしていた。鼓膜から直接火を入れたように身体が熱を持つ。
「うん……」
愁も素直に返す。キスだけでこんなに気持ちいいのに、これ以上のことをしたらどうなってしまうのか想像がつかない。けれど、遼平が相手なら大丈夫だろうと思えることが嬉しかった。
だって俺たちはもう、宇宙にまで行ってしまったのだから。
ぎゅっと抱き寄せられて、しばらくお互いの体温を感じながらじっとしていた。その体温も鼓動も心地がよい。他人のぬくもりに、こうして落ち着く日がくるだなんて思いもしなかった。
「あのさ、愁くん」
「うん……?」
「もっと、って言ったけど……今日はこのまま、キスだけ、したいんだけど……」
つい、顔を上げてしまった。驚いた顔をしてしまったかもしれない。同時に、それ以上のことを期待していたと思われやしないかと心配になった。しかし遼平は照れたように笑っただけで、もう一度愁を腕の中に閉じ込める。
「その……俺としては、ちょっとずつでもいいから、ちゃんと進んでいきたいんだよね」
「……うん」
「もっと……したいことも、あるし……。たぶんこのまま、それっぽいことも……できなくは、ないと思うんだけど……」
ごにょごにょと語尾が小さくなっていく。照れているせいなのか、自信のなさなのかはわからなかったが、遼平らしくて愛おしかった。
「俺も……」
言いながら、遼平の肩に頭を乗せるようにする。鼓動の音は相変わらず速いままだが、それでもこうしてくっついているだけで幸せだった。
「俺も……まだ少しこわい、かな」
そう言うと、遼平は少しほっとしたように髪を撫でてきた。その手つきが優しくて心地いい。そうだ。遼平は言っていた、火星の星空の下で。愁を大事にしたいと。ちょっとずつ進んでいきたいと。あの小さな光の中で、巡り会えた、かけがえのない相手。
しばらくされるがままに撫でられていると、遼平がぽつりとつぶやいた。
「なんか、もったいないなって思って」
「もったいない……?」
「だってせっかく愁くんとあんな体験ができて……こうやって、キスまでして……これ以上何かしちゃったら、それってもうお腹いっぱいすぎるかな、って」
「……うん」
「なんていうか、こう……もっと、お腹すいたーってときがいいかなって、思うんだよね……」
遼平らしい考え方だった。でも、その気持ちはよくわかる。本当に満たされていると感じるときは、余分なものを入れないでとっておきたい気分になる。
それにいま、遼平本人は無自覚だったのかもしれないが、捉えようによっては「飢えてから食べたい」と言われたようなものだった。飢えるほど、この身に焦がれてくれるということだろうか。そんなに贅沢なことが、これから先に。
「うん。じゃあ……お腹が空いたときに、してほしい」
「いいの?」
「いいよ。俺も……そのときなら、嬉しいと思うから」
それは嘘偽りのない本心だった。遼平が求めてくれるのなら、それに応えたい。それが、いちばん幸せなことだと信じられる。
笑ってみせると、遼平も嬉しそうに笑い返してくれた。それからもう一度くちびるをふれ合わせ、見つめ合う。
まだしばらく、このままでいいのかもしれない。焦ることはないのだと思うと、安心するような物足りないような不思議な気分になったが、それもまた楽しい気がする。そんなに気が遠い話でもないだろう。いろいろと壮大なものを見たあとなら、余計に。いまはここに、決して消えない明かりが灯っているのだから。
この続きは未来で考えよう。これからやってくるたくさんの楽しいことの中で、自分たちの関係も変化していくだろう。それに期待したいし、もし何かあっても、遼平となら乗り越えられるはずだから。
「愁くん」
「ん?」
「好きだよ」
「……うん、俺も」
心からそう答えて、もう一度キスをした。
fin.

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