「かっちゃん、おばさんに連絡した?」
窓側の席で、頬杖をついた海斗は「んー」と生返事をする。気ぃ抜けてんなー、とちょっとしたものめずらしさを感じた。そばにマサさんもいるのだから、普段ならもうすこしお行儀よく姿勢よくしているものなのだが。疲労と安堵による油断、といったほうがいいかもしれない。
「んーじゃないってば」
「うるせ……したっての……」
語尾は弱く、結局すぐ海斗は寝入ってしまった。中学のときは知らないが、小学校の遠足でも高学年になったくらいからあまり人前で無防備に寝ていたような記憶がないので、やはりレアな光景だと思う。まあそれだけいまが気を許せる環境なのかな、と思えば七緒としても喜ばしいし、安心できる。
シャッター音が鳴らないアプリでこっそり寝顔を撮って小野木家女性陣グループへ送信し、念のため改めて到着時間を伝えておく。車窓の外はもう暗かった。
終わっちゃったんだな、全国大会。まさか自分が、こんなところまでくるとは思いもよらなかった。海斗に負けまいと追いかけたり、追い越したり。そうしているうちにあれよあれよと。
ぺら、とページをめくる音がふと耳に届き、通路を挟んだ隣の席を見た。静弥が読書をしているらしい。まあ静弥だもんね、と尊敬とも畏怖ともつかない感情になりつつ、ゲームでもするかとスマホの画面をつけた。
が、しかし違和感に気づき七緒はそのままアプリを開こうとした指を止めた。静弥が持っていた本はハードカバーにしては大きく薄い。そして裏表紙になんとなく見覚えがあった気がする。もう一度静弥のほうを向き、今度は覗きこんで手に持っているものを確かめた。
にわかには信じがたいその正体に、思わず「え」と声がこぼれる。
「静弥宿題やってんの? マジ?」
本、ではない。静弥が手にしていたのは夏休みの課題のひとつである数Ⅰの問題集だった。急に話しかけたからか、静弥は目を丸くして七緒を見てから、穏やかに微笑む。
「やってないよ、見てるだけ」
「なにが違うのかわかんないんだけど」
「残りの問題とか、ペース配分とか、そういうのを確認してるだけだよ」
七緒にとってそれは十分『宿題をやる』に含まれる行いなのだが、静弥はさも当然のようにさらりと答えた。
「いやいや、全国大会帰りの新幹線で問題集を開こうって思うことというか、そもそも持ってきてるのがウケるっしょ」
「そう? 海斗も持ってきてるんじゃない?」
振り向いたが、水を向けられても動かないので海斗は眠ったままのようだった。静弥の向こう側、窓際から順に座っている遼平、湊もぐっすり眠っている。あれ、もしかしてこういう状況で静弥だけとしゃべるのって、めずらしいかも。
「かっちゃんは持ってきてたとしても、結局出さずに終わって荷物だけ増やしちゃうタイプなんだよねえ」
「なるほどね。なんかわかるかも」
「そうそう。ちなみにオレは持ってくるなんて発想すらなかったタイプだけど、湊も遼平も絶対そうだから。こっちが多数派だから」
「別になんとも思わないって。好きでやってるだけだし」
朗らかに言いながら、静弥は手元の問題集を閉じた。邪魔しちゃったかなと思いつつも、『好きでやってる』の意味を考えてしまう。
「……静弥って、かっこいーね」
つい、しみじみと口に出していた。静弥は一瞬、耳慣れない言語を聞いたようにきょとんとしてから、「なに、突然」とめずらしく照れくさそうにする。
言っていいものか、すこしためらった。自分が口にするには軽々しい気がして。それに静弥は、きっと求めていないと思うから。そんなこと、当たり前だって。ずっとやってきたことだからって。
「だって自分で決めたこと、ちゃんとやってる。自分との約束を守れるって、かっこいいよ」
静弥はいつも、『ちゃんと』している。少なくとも七緒からはそう見える。
出会ったころは、それが潔癖な頑なさに感じていた。海斗や湊のようにひたすら弓に夢中というわけでもない。訊けば七緒と同じく中学から弓を始めたという。なのに強豪桐先で代表にまでなり、いまだって部員の中でいちばん安定している。なんでこんなに中るのかな、やっぱ才能あるやつは違うんだろうなと思いながら見ていた時期もあった。
だけど決して、そんな単純なものではない。見ていれば、わかるから。昔からずっと、自分との小さな約束もなおざりにすることなく、ひとつひとつ守って生きてきたことが。まだ出会って四ヶ月しか経っていなくとも。
静弥が『ブレない』のは、そんな積み重ねの結果だ。静弥が目の前で中てるたび、自分もちゃんとしなきゃと背筋が伸びる。
黙って七緒を見つめていた静弥が、ふと相好を崩した。
「七緒のお墨付きは嬉しいな」
ありがとう、と殊の外嬉しそうにされて、なんだかこっちまで照れくさくなる。
今日、そんな静弥から背中をまかされたのがこの上なく嬉しかった。静弥だって人間で、苦手なこともあるし完璧超人じゃない。昨日のようにブレてしまうことだってある。でもそれを最終的に支えるのは湊だ。七緒にも、見つめるものがあるからわかる。
なのに、名前をちゃんと呼んで、まかせてくれた。あの、晴れ晴れとした歓びや誇らしさを、なんと表現したらいいだろう。
五人で引くこと。お互いに支えて、支えられること。こんなところまでこられたから、知ることができた。
「そういう顔、湊以外にもしてくれるんだ」
「なにそれ、どういう顔してる?」
「すごく嬉しいなーって顔」
「するよ、普通に。誰だって褒められたら嬉しいだろ?」
「マサさんからでも?」
「それはまったく別」
「おーい、聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いましたので」
七緒のうしろの席に座っていた、マサさんからの抗議の声にも軽やかに返す。頑なさからしなやかさへ変容したその強さが、いまはなによりも頼もしい。
忘れられないだろうな、と思う。静弥に背中をまかされたこと。あの場に五人で立ったこと。でも、まだ終わりじゃない。
「ところでオレ、数Ⅰほとんど終わってないんだよね」
「なに? もしかしてそのために持ち上げたの?」
「違うって! でもヤバくなったら助けてよ~」
「はいはい。しょうがないなあ」
夏休みも、ついでに宿題も、まだまだ残っているのだから。
fin.

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