call 【海七】

はじめて女の子とそうなったとき、途方もない心地になった。こうして人間の営みに巻き込まれて、本当に望むものは生涯手に入らないまま生きていくんだと思ったから。
誰かが、もしかしたら複数人が、これから先知るのであろうことを自分は知ることができなくて、でも望むことすらきっと間違っていて。そういうものだって、諦めるしかない。
同時に、自分の中の感情の正体をようやく理解した瞬間だった。
望みすぎなければいい。これまでどおり、血縁という最初から配られたカードひとつを大切にして。これだけは一生なくさない、お守りみたいなものだ。
たとえこの先すり切れて、ぼろぼろになって、使うことがなくなっても。どんなに新たな手札をもらっても、お互いにずっと捨てられないものがあるだけ幸福じゃないか。
「七緒、先に風呂入ってこい」
「えぇー……かっちゃん先に入んなよ」
「おまえんちだろ」
「今さらそれ、理由になる?」
替えのシャンプーがどこに保管されているかも知ってるのに。
体力的な意味でも精神力的な意味でもぐたっとしていて、起き上がろうと思えない。視界の端で、海斗が丸めたティッシュをゴミ箱に投げ入れるのが見えて、次のゴミの日っていつだったっけと考える。
「――どっか痛いか?」
まったく動こうとしない七緒にしびれを切らして、というわけではなさそうだから返答に困った。そりゃあ、万事万全ってわけはないけども。いろいろ違和感とか疲労感とかでいっぱいだけど。
「んー……」
「どっちだよ」
わしわしとかき混ぜるように髪をなでられる。なんか既視感のある手つきだな、と思いつつ寝返りを打って背を向けた。
「おい」
「まだちょっと、動けないから」
それだけ言えば黙るだろうという思惑は正しくて、まだ何か言いたそうにしている気配はわかったけれど海斗はそれ以上続けなかった。
「――ッ、」
また、髪にふれられて少し身体がふるえる。自分で乱した七緒の髪を、手ぐしで整えているようだった。かっちゃんって、終わったあとそういうことするんだ、と喉まで出かけて、やめた。
あのとき諦めたことが、本当に叶ってしまったんだ。こんなの望んじゃいけないって、一生知ることはないんだって、場に伏せたはずだったのに。
なんで意図も容易く手札に戻しちゃうかね、この子は。『子』というにはずいぶんデカくなってしまったけど。
ありがとうも、ごめんねも、違う気がする。いちばんヒリヒリしてるのは心臓だ。自分自身の鼓動が、こんなに痛く感じることがあるんだって、他人事みたいに思っていた。
セックスはコミュニケーションって、誰が言ってたんだっけ。いちばん原始的で、むき出しの欲をやり取りして、なのに言葉ではうまく表せられない。
髪を梳いていた指が後頭部を辿って、うなじから肩をなぜる。なんかやっぱり猫にするやり方なんだよなと思いつつも、大切なものにふれるときの手つきということも、わかる。
わかってる。生まれたときから見ているのだから。
「えっち」
「は? そういうんじゃねーしっ」
ぱっと離れたと思ったらそのまま肩を叩かれて、ぺちっと音が鳴った。億劫に振り返って見上げた顔は、わりと本気で照れているようで、ぶっきらぼうに「なんだよ」と言われる。
そっか、オレ、ほんとにかっちゃんとしちゃったんだ。本当に、好きな人と。
「お風呂入る」
「そうしろ」
「でもかっちゃんもいっしょに入って」
「はぁ? ガキじゃあるまいし」
「だって、オレひとりで入って身体とか洗い流しちゃったら、上がったときに全部なかったことにしてって言っちゃうから」
全部忘れたくないのに。吐息の熱さ、滴った汗が肌を打つ感触、粘膜同士がふれあった瞬間の、心の歓喜を。それらが全部お湯で流れてしまったら、きっと忘れてほしいとねだってしまう。自分だけで、抱えて生きていくからと。
海斗は怒ったような、呆れたような、戸惑ったような面持ちをしばらく行き来していたと思ったら、突然こちらに身を乗り出してきた。
「え、なに……いたっ」
がぶ、と肩を噛まれて、思わず非難の声をあげてしまう。歯形がつくまでのものではなかったが、よく理解できなくて噛まれた肩口と海斗の顔を見比べた。
「ぜってーなかったことにしてやんねえから」
「は……?」
「おら、起きろ。風呂行くんだろ」
「ちょ、っと……」
腕を引っ張られながら起こされて、ベッドから降りても海斗はそのまま七緒の手を引いて歩き出す。
「ねえってば」
「うるせーな、一緒に入れって言ったのはそっちだろ」
振り向きもしない。なのにその背中を見ていると鼻の奥がつんとした。忘れてって、なかったことにしてって、言わなくていいんだ。
「かっちゃん、」
「あ?」
さっきわからなかった言葉が、今度はわかる。
「好きだよ」
脱衣所の前まできて立ち止まり、ようやく海斗が振り返る。
「知ってるっつーの」
よかった、もう、この感情を捨てなくていいんだ。諦めなくていいんだ。持っていていいんだ。ここから、続けていいんだ。
裸の背中に抱きついて、真似して肩を噛んでみる。「痛えよ」と咎める声が思いの外甘く聞こえて、どきどきしたから悔しかった。

fin.

230616
以前「30文字で書く小説」で「好きだよ。伝えることでごまかされすり減ってゆく恋心。」という海七の文を書きまして。これは海←七の片想いなんですね。いくら伝えても、受け取ってもらえないのが当たり前、みたいな。そういう意味で、最後のほうの海斗のセリフを書いています。これ以上は野暮なので言いません。

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