実家の母から突然かかってくる電話、というのはいくら親子仲が良好でも一瞬どきりとする。
スマホに買い替えて以来「これでスタンプが送れるようになるのね」なんて無邪気に喜んでいた母とは、通話をする機会が格段に減っていたので余計に。
小湊家にとって”母の日”はかなり重要な位置づけだ。
今年は春市と相談の上、母の好きなドーナツ屋の限定ギフトを贈っていた。無事到着した旨の連絡はグループメッセージに入っていたし(かわいらしいスタンプと共に)、わざわざ電話してくるなんてなにか不都合でもあったのだろうかと心配してしまった。
『それでね、うちで洋ちゃんのお誕生日祝いをしたいの。亮ちゃんも今年は結局お返事くれなかったし』
「だから、もう誕生日で喜ぶ歳でもないしなにもいらないって言ったじゃん」
『え~……』
だが内容はまったく予想外のことだった。
母の日の数日後、五月十七日は倉持の誕生日だ。とはいえそれなりに付き合いが長くなってきたからか、最近ではあまり重要な位置づけにされていない。それを知ってか知らずか、うちの実家でお祝いをしないかという提案だった。
それにしても母の『洋ちゃん』呼びにはいまだに慣れない。ようちゃん、とりょうちゃん、で発音も似ているし一瞬自分のことなのかと混乱することがある。
最初は『倉持くん』と呼んでいたはずなのだが、春市が『洋さん』と呼んでいると知るやいなやすっかり『洋ちゃん』が定着してしまった。倉持本人もまんざらではなさそう、むしろ喜ばしいようなのでべつにいいんだけど。
『ねえ、お父さんからもお願いしてよ』
「いやちょっと……」
『亮介? 元気してるか?』
「元気は元気」
『母さん、めいっぱい料理したいらしいんだよ。ケーキを作っても最近はふたりじゃ食べきれないことも増えちゃったから』
「あー、そういうこと」
『洋一くんが嫌なら無理にとはいわないから、訊くだけ訊いてみてくれないかな?』
「断られたときは母さんの説得してよ」
『うん、まかせて』
電話はそこで切り上げさせてもらった。お菓子作りを主とした料理が趣味の母にとって、満足するまで料理を作る機会なんていまでは盆正月の帰省時くらいしかないのかもしれない。
なんて考えると、邪険にせず頼んでみるかという気にさせられる。こういうとき、我が家でいちばん強いのは母だと実感する。我々は誰ひとりとして本気で反抗できたためしがない。
「倉持、週末にうちの実家でケーキ食べたい?」
「食いたい」
廊下から部屋に戻り、前置きもなく問いかけたが倉持の返答はノータイムでオーケーだった。
テレビを見ていたようだし、こちらの会話の内容は聞こえていなかったはずなのだが、そこまで即答だと聞こえてたのか? と疑いたくもなる。
「聞こえてた?」
「え、だからケーキっすよね? 食いたいっす」
「いや、電話の内容」
「ぜんぜん」
「もうちょっと考えろよ」
「亮さんちのケーキでしょ? 悩む要素が一切ないんスけど」
「誕生日祝いしたいんだって」
「あ、そーいうこと! 先に言ってくださいよ、絶対行くに決まってんじゃないっすか」
え、そういうものか? 恋人の実家で誕生日をケーキで祝われるって、そんなに即答して受け入れられるものなのか? まあべつに、倉持が嫌じゃないならそれでいいんだけど。
もし逆の立場だったら、嬉しいけれどためらってしまう。
お互いの実家にはもう何度か訪れているけれど、”お客さん”の立場はすこし疲れてしまうから。それにどうしても気恥ずかしさが勝ってしまう。初訪問があんなかたちだったからだろうか。
しかし「いちごのケーキ?」とか聞いてきた倉持がそれはもうかわいかったのでめちゃくちゃに頭をなでてやったし、手のひらを返すようにちゃんと母にも『いちごのケーキがいいらしい』と要望を伝えておいた。
目付きが悪くて趣味の悪い虎やら龍やらが描かれている服を持っていたりするくせに、ケーキとかハンバーグとかオムライスに喜んだりするお子さま舌の持ち主だった、この恋人は。
そういうところが、かわいくて好きなんだけど。
***
亮さんからは何度か「ほんとにいいの?」と訊かれたので、もうちょっと焦らしたほうがよかったのだろうかという気もしないでもなかった。しかしよく聞けば亮さんの誕生日祝いも兼ねているということだし、やはり悩んだり断ったりする要素が見当たらない。
たしかに実家に相手を連れて行くことに、少し気後れするのは理解できる。うちなんて亮さんの実家に比べたらめちゃくちゃ狭いし。なにをやっても筒抜けのような気がして、ふたりで帰ると実家なのに気が休まらない。部屋がないので泊まってもらったこともない。
その点亮さんの実家は豪邸かってほど広いし、客間で(というか客間があるのがすげえ)こっそりキスをしたときは、不謹慎ながら興奮してしまった。
「洋ちゃん、いっぱい食べてね」
「洋一くん、ビール飲む?」
「はい、ありがとうございます」
だがこうして善意一〇〇パーセントでご両親から接されてしまうと、興奮なんてしたのは本当に不謹慎だったなと罪悪感を抱かないでもない。一緒に住む前にあいさつもしているし、俺と亮さんの関係もとっくに知られているけれども。
「父さん、あんまり飲ませないでよ。こいつ酒強くないんだから」
「はいはい、わかってるよ」
小湊家にいるときの亮さんは、長男の顔をしている。今回はいないが、春市がいるときは特に。うまく言えないけれど、この家族のあいだに一本芯を通しているような、そういう存在であることが窺える。本人たちは無自覚そうだけれども。ようするにご両親も弟の春市もみんな、亮さんのことを大好きなのが伝わってくる。
こんなになにひとつ不自由のなさそうな家で生まれ育ったのに、高校の時点で家を出ようと決意した気持ちが、少しだけわかる気がする。
「洋一、それ取って」
「え? ああ、はい」
あとは、俺のことを名前で呼んでくれるから、亮さんの実家に行くのは好きだ。理解までにひと呼吸かかるけれども。
ご両親から『名字で呼ぶなんてよそよそしいでしょう?』といわれて以降亮さんは実家にいるときだけ名前で呼んでくれる。普段も、一切呼ばれないわけではないんだけども。呼ばれるときは特別なとき、というわけだ。
*
「ケーキが……ケーキが二個もあった……」
「喜んでいただけたようでなにより」
食卓に並ぶごちそうをめいっぱいいただき、一番風呂までいただいてしまって、客間に入ると亮さんが布団を敷いてくれていた。
寝るときは自分の部屋に戻ってしまうのだけれども、風呂上がりにドライヤーを貸すついでに俺の髪の毛まで乾かしてくれる。つまりは唯一、はばからずふれあえる時間。
「亮さんちの風呂、いつも思うけど広すぎ」
「そう? 普通じゃない?」
「いやいやいや、普通じゃねーから! あとケーキが手作りで二個出てくるのも普通じゃねーから……すげーなあ。あんな細腕であんだけ料理作っちゃうんだから」
とても元野球部の男兄弟ふたりの母、には見えない容姿と雰囲気なのが亮さんの母親だった。ふわふわしている、という表現がぴったりなのだが、危なっかしいところはない。
食事の準備も後片付けも、魔法か? というほどてきぱきとあっという間に終わるので、亮さん自身が料理をするときにあまり要領がよくない理由がすぐにわかった。あれではまったくもって参考にならない。
乾かし終わったらしく、亮さんがドライヤーのスイッチを切った。
「料理が趣味みたいな人だから――ありがとな」
「え、なんで? 祝ってもらった俺のほうがありがとうなんすけど」
振り向いたところで、キスをされた。あれ、めずらしい。前にしたあと「もうするなよ」と釘を刺されていたのだけれども。
くっつけられただけのくちびるはすぐはなれる。追いかけて、もう一度重ねて、したっかわのくちびるを喰む。
「ぁ――ッ」
細かにこぼれた、吐息のような声を聞いたら、身体がまた湯気でもかぶったように体温を上げてしまう。
しかし腰に回そうとした手はやんわりと阻止されて、ついでに両方のほっぺたをつねられた。
「いひゃいいひゃい」
「すぐ調子に乗る」
調子に乗せたのは亮さんのほうなのに、という反論はしないでおいた。いたずらに機嫌を損ねるようなことは口にしない。こういうのも照れ隠しだと、わかっているし。
「なんとなく、だけど」
手を離して、つまんでいたところを亮さんがなでる。
「連れてきていいのかなって、いつも思うよ」
「――うん」
「本当は、俺のほうが倉持の家に行って、感謝を伝えるべきだよね」
「えー、それはどうでしょう」
「生んでくれて、育ててくれてありがとうって。でも、」
「亮さん、もういいから」
「うん、わかってる」
「俺も同じだから。ちゃんとわかってるから」
「うん」
抱き寄せようとした手は、今度は振り払われなかった。
先刻の、突発的な情慾ではなく、ただひたすらにいとおしくて、抱きしめる。みなまで言わなくたっていい。わかっている。ためらう理由も、後ろめたい気持ちも。
いくらお互いの親から公認されていて、あたたかく受け入れられ、こうして愛情を受け取ることがあるとしても、最後につながる糸はお互いの気持ちしかない。
そういう不安はつきものだ。だからケンカもした。泣いたり傷つけたりもした。
それでも、選んだ。
一緒にいたいと、ふたりで選んだから、いまがある。
「倉持、誕生日おめでとう」
「……名前、呼んでくれねーの?」
「もー、しょうがないじゃん、呼び慣れてんだから。母さんたちがああだから合わせてるだけだし」
「じゃあ今年の誕生日プレゼントは、普段からも名前で呼ぶってことで」
「はぁ? そんなのプレゼントでもなんでもないだろ」
「それか帰ってからベッドでいっぱい呼んでもらおうかな」
「おやじくさっ。じゃあ誕生日プレゼントに帰りは俺が運転してあげるよ」
「ムリムリムリ! 亮さん? 俺の車、俺しか保険入ってねーから」
「あのさあ、俺だって一日単位でスマホから自動車保険に入れることくらい知ってるんだよ?」
「誰だそんなこと教えたの! 春市か?!」
「さあね」
「亮ちゃん? 洋ちゃんといるの? ドライヤー持ってる?」
「あ、ごめん持ってる」
部屋の外からかけられた声に、俺は固まったのに亮さんは動じず立ち上がった。すっかりムードもへったくれもなくなったタイミングだったが、よくそんな瞬時に切り替えできるものだ。
コンセントからコードを抜き、未練なく立ち去ろうとする姿に今日はここまでかと察する。
「あのさあ、来年だけど」
「え?」
「来年の誕生日は、どっか旅行にでも行こうか」
「マジ?」
「マジ。そのとき運転してやるよ」
「いやもう運転はいいから!」
亮さんはめずらしくけらけら笑ってから、「おやすみ、洋一」なんて格別に甘ったるい声で告げて部屋を出てしまった。
「そういうとこっすよ、マジで」
選んだ未来がいまここにあって、また新しい約束が紡がれていく。
つながっている糸がどんなに不確かで、心許ないものだとしても。あの人には敵わない、と感じるこの瞬間に、俺は何度も恋をしている。
fin.

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