2 きみの顔
「それにしても、よくこんな急に予約が取れたね」
「おれにも人脈ってものがあるんだよ」
得意げな言い方に、眉をひそめる。湊の口から〝人脈〟なんて言葉が出てくるとは。非常勤とはいえ、母校も含めて複数の学校で「先生」をやっている今の暮らしは、断片的にしか聞いていない。正直、まだうまく想像できないのが本音だ。それにしたって。
「……人脈、ねえ」
「なんでちょっと引っかかってるんだよ」
「べつに?」
いぶかしいけれど、そんな言葉を使うのならきっと、知り合いの伝手だろう。信じていないわけじゃない。ただ、こうもすべてを丸投げにしたのは初めてのことなので、どうしても心配が入り混じってしまう。
湊が「ここだよ」と言った宿は、入り口には季節の花があしらわれた鉢植えが並んでいて、程よく品のある佇まいだった。どことなく懐かしさもありながら、手入れの行き届いた清潔感がある。
受付にいた従業員の女性に「鳴宮です」と名前を告げると、すぐに顔をほころばせ「お待ちしておりました」と恭しく頭を下げられた。帳簿を書いているあいだに女性は奥へ下がり、すぐ年配の男性とともに戻ってくる。作務衣姿で、ゆったりとした物腰だが、既視感のある緊張を覚えて自然と背筋が伸びた。まるで、的前に立ったときのような……と感じるのは、湊といるからだろうか。
「いらっしゃい、湊くん。よく来てくれたね」
「お世話になります、先生」
「お連れさんも、遠いところをありがとうございます」
「いえ……こちらこそ、お世話になります」
先生と呼ばれた男性は、この宿の主人だと丁寧に名乗ってくれた。特に縁がないはずの温泉地に、湊が「先生」と呼ぶ人がいて、しかも宿の経営者ときた。どんなつながりなのか、まったく見えてこない。
***
プリンを持ったまま再び歩いて、足湯のある路地に入った。下駄を脱いで、ふたり並んで腰を下ろす。湯の熱がじんわりと全身に伝わって、自然と大きく息を吐いた声が重なっていた。
「ハモった」
そう言って笑った湊につられて笑う。春の残り香と、湯けむりに混じる温泉の匂い。知らないはずなのに懐かしいと感じるのは、人間のどういった機能が働いているからなのだろう。
「そこかしこに足湯があるんだね」
「うん。外湯めぐりもできるけど……このほうが気楽だろ?」
「ごめん、全部決めてもらって」
「おれが決めるって言ったんだから、いいよ」
行き先をうっかり言い忘れたのは、置いといて。ぐ、ぱっと開いたり閉じたりする、湊の足の指の動きをまねて動かしてみる。高めの湯温もあってか、どんどん血がめぐっているのを感じた。
「足の指でじゃんけんするの、いいらしいよ」
「なんかそれ、この前実習先の先生がおじいちゃんに説明してるのを聞いたような……」
「え、でも歩き回ったあととか、手で足の指をぐーって広げると気持ちいいけど」
「そうなんだ」
「でも、たまに生徒にも言われるんだよなあ。言うことがおじいちゃんっぽいって。昔、マサさんにオヤジくさいって言ったの、ごめんって今は思う」
「プリン食べようか」
あからさまに話を終わらせたので、苦笑いされた。本当に、あの人はいついかなるときでも名前が出てくるのだから油断がならない。
***
3 ふれる、熱
湯気越しに見る静弥の横顔は、いつもよりなんだか幼く見えた。濡れた髪が額に張り付き、頬にはほのかに赤みが差している。
何気なく首を左右に倒して筋を伸ばしていると、静弥もそれに倣ったのか肩に手をやって、軽く揉み始めた。
「静弥、肩凝ってる?」
「え? うん、まあ」
予想外だったのか、その返事は気が抜けたようなものだった。見慣れぬ眼鏡の奥で、瞳がまるく、ぱちぱちとまばたきをする。
「最近、マッサージとかストレッチの勉強してるんだけど、ちょっとやってみてもいい?」
「……どうぞ」
静弥が背を向けて、湯に揺れる。湊はそっと距離を詰めると、そのまま手を伸ばして肩にふれた。思っていた以上に、張っている。不意のタイミングだったのか、その身体がぴくりと小さく跳ねた。。
「やっぱ、かなり凝ってるな……」
「それで今日、マッサージ系の話題が多かったんだ」
「おれ、そんな語ってた?」
「それなりに。いいことだと思うよ。人に説明してみて理解できることって、たくさんあるから」
「うん、それは――いつも思う」
相手の身体にふれて、ほぐして、楽にしてあげる。その感覚が伝わってきたとき、自分もちょっとだけ軽くなる気がする。
先生の仕事も、たぶんそれと似ている。相手のことを考えて、手を動かして、届かせていく。
親指でゆっくりと円を描くように、肩甲骨のあたりや、首筋の裏を押していく。ふれるたびに、湯に浮かぶ筋肉がほんの少しずつゆるんでいくのがわかる。
「っ……くすぐったい」
「ごめん。でも、このへんも張ってるし……静弥、すぐがんばりすぎるからなあ」
今だけでも、楽になってほしかった。「ちょっと力入れるよ」と声をかけて、手のひらの根元でぐっと肩甲骨のきわを押す。
「ん、っ」
「痛かった?」
静弥は小さく首を振った。湯気のなかで、かすれた声が落ちてくる。
「……ごめん、心配かけて」
「べつに、心配っていうか……がんばってるの、知ってるから」
こういうところが静弥なんだよな、と思いつつ、今度は首筋のあたりへ指をすべらせていく。そのすぐ近くを、雫が一滴、しろい背中を伝って落ちていった。汗か湯か。その軌跡を目で追ったとき、何かがほんの一瞬、頭の奥に浮かんだ気がした。
どこかで――見たことがある。夜の部屋の中で、肌の上を雫が流れる。それを眺めた記憶が。けれど、それがいつだったかを思い出せない。
身体の奥で、熱が、鋭く一瞬回路を焼いた気がした。
「――さわりかた、やらしい」
「はぁっ?!」
***
今日は、静弥にとっていい一日だっただろうか。電車の中で眠っていた顔。足湯でのゆるんだ表情。いろとりどりの夕食を、時間をかけても全部食べてくれたこと。湯船でふれた、張った肩の感触。そのすべてが、頭の中をけぶらせていく。
素肌にふれたのだって、久しぶりだったはずなのに。思い出すたびに、身体の芯で熱がゆらめいた。
本当にこのまま、今日を終わらせてしまっていいのだろうか。
「……そっち、行っていい?」
まだ、静弥の寝息が聞こえていないのに気づいていた。きっと、静弥も気づいていただろう。夜へひとしずくこぼした声に、短い間を置いてから返事が返ってくる。
「――うん」
無意識に息を潜めながら自分の布団を抜け出して、隣に滑り込む。その距離が、こんなにもいとおしいと思ったのは、いつぶりだろう。
並んで横になると、自然と手がふれる。静弥の手が、ためらいがちにこちらの指を握った。伝わる体温に、言葉はなくても「いいよ」と言われた気がして、たまらなくなる。
「……ごめん」
ごめん、じゃないだろう。ついそう思って、「何が?」と訊いてしまった。ないしょ話の距離で、静弥がたくさんの想いの中から言葉を探す気配が伝わってくる。
*時間の関係上年齢制限なしですが、余白を楽しんでいただければ幸いです。めっちゃいい話書いたので!(自画自賛)よろしくお願いします。

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