ひかりふる・サンプル【湊静】 - 2/3

※WEB用に改行しています。

1 旅のはじまり

改札を吹き抜けた風は、からりと初夏の匂いがした。去年、初任給で買ったスマートウォッチに目をやる。新幹線の到着予定時刻まで、あと数分。春の終わりと、初夏の始まりを感じる昼下がり。ガラス越しの陽射しが長袖のシャツに落ちて、少し汗ばむような陽気だった。

改札の向こう、エスカレーターを上がってくる人の流れの中に、見慣れた姿が見えてきた。ボストンバッグを肩にかけ、静弥がまっすぐこっちに歩いてくる。ひとつひとつの動作は変わらず静かで、でも忙しない日々をくぐってきた気配が、細い影となってまとっているようだった。すぐに見つけてくれたのか、はっきり目が合ったのがわかった。
改札を抜けて、静弥が小さく手を上げる。それが合図みたいに、自分からも歩み寄った。

「……久しぶり」

かすかに目を細め、いつもの落ち着いた声で言う。その声を聞いた瞬間、自分の中にあった緊張に似た何かが、ふっとほどけていくのがわかった。
電話越しじゃない、静弥の声だ。ほんのり眠たげだけど、まっすぐ自分を見てくれている。

「ひさしぶり……お疲れさま」
「うん。ごめん、待たせて」

ふうっと息をついて、頬がゆるむ。静弥も、漠然とした緊張を抱えていたのかもしれない。最後に会ったのは、年末年始だ。決して長い空白ではなくても、やはり〝離れて暮らしている〟のはふしぎな感覚がある。
髪、ちょっと伸びた気がする。目の下には、うっすらとくまも。静弥の暮らしが、そこへにじんで見えた。

「それで結局――どこに連れて行ってくれるの?」

じゃあ行こうか、とローカル線の駅方面に向かって歩き出すと、緩やかに歩調を合わせながら訊ねられて、すぐ足を止めてしまった。

「あれ……言ってなかったっけ?」
「うん」

我ながら間の抜けた返事に、静弥は笑うでもなく眉を上げる。

「先生やってるなら、報連相は徹底しなきゃ」
「う……ごめん」
「つめが甘いですよ、湊先生」

からかいを含んだ口調だが、声色には「わかってたけどね」と、心のどこかで穏やかに笑ってくれている、やわらかな響きがあった。もう一度「ごめんってば」と言いながら歩き出し、先に買っていた特急の切符をポケットから取り出した。

「お金、あとでいいよ。お詫びに奢ってもいいけど」
「いいよ、出す。なるほどね、だからこの時間指定だったんだ」

行き先である終点の駅名を見て、すぐに察してくれたようだった。エスカレーターを降りて建物の外に出ると、空は澄んでいて、雲ひとつない。

「てか、訊いてくれればよかったのに」
「素敵なサプライズのつもりだったら、野暮かなって」

その手があったか……なんて、気づいたところでもう遅い。
地下へ続くエスカレーターの前で、ふと「お腹減ってない?」と尋ねた。何か買うなら、まだ時間的にも間に合うだろう。

「大丈夫」

そう言って、静弥は歩みを止めず先に乗ってしまう。

「僕には完全食があるから」
「……またパンで済ませたな」

呆れ混じりに言っても、響きやしない。電話のたびに「湊のごはんが恋しい」と言ってくれるのは嬉しいけれど、代わりに口にしているものが、どうにも味気ないというか、雑というか。手を伸ばせば作ってあげられたころの時間が、ふいに遠く感じた。

赤と白の車体の特急に乗り換え、ふたり並んで席に腰を下ろす。人はまばらで、発車しても車内は静かだった。黒いシートのせいか、窓の外の光景よりも、車内は心なしか暗く感じられる。窓の向こうには、山の稜線がゆるやかに流れていく。
連絡はこまめに取っているから、近況報告といっても目新しい話題は少なかった。窓の外を眺めながら、「このへん通るの久しぶり」「あそこのお店、変わったらしい」と言い合うなんでもないやりとりが、いつもの空気としてなじんでいく。

「そういえば、旅程はどんな感じ? 明日帰る時間、親に言ってなくて」
「ああ。明日の昼には帰る予定だけど……おれから言ってあるよ。迎えに来てくれるって」

だからてっきり、静弥にも行き先を伝えたものだと思い込んでしまっていた。やっぱり今からサプライズってことにできないかな。……無理か。

「どおりで、いつもみたいに『何時に帰ってくるの?』ってせっつかれなかったわけだ」
「それ、謝ったほうがいいやつ?」
「全然。とりあえず湊と合流したことだけ、連絡しとく」

スマートフォンを手早く操作し、静弥はふう、とひとつため息をついた。うっすらと面倒そうな、身内の人間にしか見せない表情だ。見られる相手が限られていると気づいたのは、大人になってからだけれど。

「おばさんに言われた。おれに会うのがメインで、こっちはおまけで帰ってきてくれるって」
「それは、否定できないけど……。そういうとき、なんて返してる?」
「おれがうまいこと言えるわけないだろ? 笑って流すくらい」

このあいだ顔を合わせたときも、「温泉行くんだって? いつまでたっても仲良しねえ」と笑われた。探られるでも、からかわれるでもなく――本当に、そう思ってくれているような声だった。その感じがちょっとだけ照れくさいけど、ありがたい。
もしかしたら自分の父親も、静弥の両親も、何か察しているところはあるのかもしれない。
何を、どこまで伝えるか。ちゃんと「言おう」とふたりで決めてはいるけれど、「言うとき」はいつまでたっても見えてこない。それでもこうして並んでいると、ふしぎと焦りはなかった。
静弥はスマートフォンを伏せ、背もたれにゆったりと身を預けた。目を伏せると、短い沈黙が落ちる。その静けさの中で、ためらいがちにぽつんと言葉が届いた。

「ごめん、ちょっと寝てもいい?」
「うん」

そう答えてから数分もたたないうちに、静弥は本当にすぅ、と息を落として寝入ってしまった。
――そういえば、いつからだったっけ。こんなふうに、自分から「寝たい」と言うようになったのは。
以前までは、こっちから「眠いなら寝たら?」と声をかけてから、ようやく「……じゃあ」と返してくる案配だった。今さら遠慮なんてと思うのに、その複雑さも静弥らしい。
座席にもたれて、その横顔に目をやる。レンズ越しに見える、細く揺れるまつげ。力の抜けた肩、少しだけ、子どもっぽく見える寝顔。
静弥が、そばにいる。隣にいてくれる。
それが、ただただ嬉しかった。

十日ほど前の夜、静弥から「ちょっとそっちに帰ろうと思う」と連絡がきた。実習先の都合の関係で、わずかながら空き期間ができたらしい。

『いつ?』
『来週、とりあえず土日かな。予定、どう? 湊が無理なら、見送ろうと思うんだけど』
『マジ? ちょうど空いてるから、マサさんの手伝いにでも行こうかなって思ってたとこだった』
『じゃあ絶対に何があっても天変地異が起きても帰る』

冗談じゃなく、執念で来そうだ。

『おれがそっち行ってもいいけど』
『有り難いけど……次、いつ帰れるかわからないし。今後の方針の相談っていうか、確認とか、親と顔合わせてしたほうがいいかなって』
『そりゃそうだ。迎えに行っていい? 顔見たいし』
『――うん』

目の前にいなくても、その〝うん〟の向こうにある表情が見えた気がして、耳の奥がこそばゆくなる。

『本当は、どこか……遠くに行ったりしたいけどね』

そっちに住んでいたころも、試験前やレポートに切羽詰まると、たまに静弥は「遠くに行きたい。山と川だけ見たい」と嘆くことがあった。決して投げ出さない、ただ言ってみるだけの逃避だ。そんな弱音を言うようになったこと自体が、大きな変化だった。

『……遠く?』

でもそのときとは、なんとなく違う質感がした気がして聞き返す。

『物理的じゃなくてもいいけど。普段行かないようなところで、温泉にでも入ったり――なんてね』
『行こう』

ほとんど語尾を被せて、湊は言った。

『行こうよ、温泉。せっかくだし』
『いや……本気じゃないってば』
『おれが行きたい、静弥と温泉。行こう』

ちょっと強引だったかもしれない。でも、本気だった。静弥と、温泉と――自分の中にあったものが、これから向かう場所へ、線になって繋がった気がしたからだ。しばらく間を置いてから、静弥は「……じゃあ、行きたいかな」と返してくれた。

そういえば、「おれが全部決めとくから」と言ったあとの連絡は「場所が決まった」ではなく「宿が取れた」だった。そして、集合場所と時間だけを伝えて――。
もしかしたら、不安とちょっとの緊張を抱えたまま新幹線に乗ってきたのかもしれない。再会したときのあの表情を思い出しながら、少しだけ反省する。
電車の揺れに合わせて、静弥の肩がふわりと傾いた。寄りかかるほどでもないけれど、肩と肩がそっとふれる。
最初から甘えてくることは、今でもしない。でもこうして、昔からずっと傍らにいてくれる。
湊も同じくまぶたを閉じる。窓の外は明るい。ローカル線の特急電車で、目的地までは約五〇分。張り切った遠出、というほどじゃないけれど、今のふたりには、きっとちょうどいい距離だ。

はじまりの光が、静かな陽射しにまぎれて、そっとふりそそぐ。

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