恋人(と、表現していいことにいまだに感動する)はとても優しい、というより自分に甘い気がする。遼平がやらかしたと思って謝っても、許してくれるどころか逆に褒めてくれたりするのだ。
たとえば「遼平くんは俺が気づかないものの話をたくさんしてくれるから興味深い」とか、「感受性が豊かなところが君の魅力だよ」とか。そう言ってくれるときの愁はことのほか甘く笑っているものだから、余計に説得力を感じる。
愁から言われると、自分ってそうだったんだ、と万華鏡で新しい模様を見つけたような気持ちになるのだ。同じところを見ているはずなのに、角度を変えると知らなかった模様が見える。
長所と短所は紙一重、いつかどこかで聞いた「欠点だと感じるところも、前向きに言い換えることができます」みたいな話だってわかっているけれど。
なので同時に申し訳なさというか、いたたまれなさというか、気恥ずかしさも感じてしまうのだった。卑屈ではないけれど、愁にそこまで言ってもらえるような立派な人間じゃないことを、自分がいちばんわかっているから。
「――迷惑だったかな?」
なんてことをつい、本人に直接言ってしまったりして。愁は不安そうに表情を曇らせてしまい、そんな顔を見たかったわけじゃないのにとさらに自分にがっかりする。
「ぜんぜん! ごめん、愁くんは悪くなくて……」
うまく言えなくてあーとかうーとかしか声にできないときも、愁は急かさず待ってくれる。だけどその優しさがますます好きで、言葉はころころとどこかに転がっていって、結局「ごめんね」と繰り返すことしかできなくなってしまう。
「謝ってもらうようなことはされていないよ」
手に持っていたソーサーとカップを、机に戻す仕草すら静かで品がある。いまは愁の自室でふたりきりだけれど、遼平は愁が気を抜いているような姿を見たことがない。いつも指先まで、アイロンがかけられたようにぴしっとしている。だけどこちらを緊張させることもなく、そうあるのが自然で、当たり前のようになめらかな動き。
すこし真似てみたところで愁のようにさまになるはずもなく、そこまでごく自然に振る舞えるまでどれくらいの時間が費やされたのだろうと考えたりもする。きっと愁は覚えていないのだろうけど。
そんな愁がかけてくれる言葉だからこそ、素直に受け入れたい。だけどどこか後ろめたい。
もやもやとなにも言えずにいたが、愁のほうから「ふ、」と小さな息を洩らした。
それが笑うときの吐息だったので、顔を上げると案の定愁はおかしそうに、どこか照れくさそうに笑みを浮かべている。
「ごめん。甘い、なんて初めて言われたなと思って」
「……そう?」
「うん。俺は思ったことを伝えているだけだと思っているけれど……もしかしたら、盲目的なのかもしれないね」
恋は盲目、という言葉に頭の中で行き当たって、自然と鼓動が早まっていく。愁のことが好きかも、と気づき始めたころに辞書で『恋』の項目を見て知った。いつも理性的で冷静に見える愁とは、正反対に感じられる言葉なのに。
考えるよりも先に、ずりずりと愁のそばに近寄ってぴったり身体をくっつけた。それを拒まず、こちらを覗き込んで笑ってくれるのも、嬉しくて。
「ぎゅってしていい……?」
「もちろん」
この許しの言葉がほしくて訊いているところもあるかもしれない。横に並んだまま、上半身だけ向け合って抱きついた。ふかふかの背もたれに身体を預けて、そういえば愁がどこかにもたれかかるような姿もほとんど見たことなかったかも、と思う。
「愁くんが褒めてくれるの、すごく嬉しい」
目と目を合わせるとまったく話せなさそうだったので、肩口に顔を埋めるようにしたまま話した。伸びやかな樹木のような、清潔な石けんのような、それでいて上品でやわらかな愁の匂いがする。愁も、「うん」と返事をくれた。
「でも勘違いしちゃいそうで、怖いっていうか……」
「怖い?」
聞き返されたのを、ぎゅっと腕に力を入れて答える。愁はそんな遼平を落ち着かせるように、背中をとんとんと優しく叩いてくれた。
「俺、あんまり考えるのうまくないし……思ったらすぐ行動しちゃったり、それが余計なお世話だったり、結果的に人からウザがられたりとか、そういうの多くて……なんていうか、このままじゃダメだーって思うっていうか……」
やっぱりうまく説明できている気はしなかったが、愁は一定のリズムで背中を叩きながら静かに遼平の言葉を聞いてくれた。
「俺だって、きっと遼平くんが思っているような人間じゃないと思うな」
「愁くんは、そんなことないよ」
「どうだろう。誰だって、自分以外の人が考えていることを全て理解することはできないから、正解はどこにもないと俺は思う」
そっと身体が離れて、愁の真っ直ぐな瞳がこちらを射抜く。それは怖くはなかった。いま、そこに自分だけが映っていることにこっそり感激すらしていた。
「正解がないのなら、遼平くんが考える自分自身のことも、俺が考える遼平くんのことも、どちらも正しいと言えるんじゃないかな」
「――どっちも、正しい……」
うん、と頷いて、今度は愁が手を握ってくれる。
「間違いではない、と言うほうが適切かもしれないけれど。正解がひとつしかないより、ずっといいことだと思うよ」
この手にふれてみたいと、願ったことのある人はどれくらいいるのだろう。爪の先まで手入れの行き届いた、美しい弦音を響かせる手。
握り返すと、遼平よりはすこし低い体温が伝わってきて気持ちいい。
「――やっぱ愁くんって、励ますの上手だね。なんか元気出てきたぽい」
「よかった。俺も、遼平くんに言われて気づいた自分のことがたくさんあるよ」
「ほんと?」
「うん。自分の中から、砂金を見つけてもらえたみたいで嬉しくなる」
さきん、がなにかを具体的に想像することはできなかったが、愁が嬉しいなら同じく嬉しいので手を握り直して指を絡めてみる。にぎにぎと指を動かすと、どこかふしぎそうにしながら愁も同じようにしてくれた。
こういうとき愁がされるがままになってくれるのが、言葉で許してもらうよりもほっとして、緊張する。自身を傷つけない相手、と信頼して委ねてくれていることへの喜びと、責任のようなものを感じて。
「でも直してほしいとこがあったら言ってね」
だから間違っても傷つけたくないし、誰よりも大切にしたい。あんまり深刻になりすぎないように、手をにぎにぎしたまま言うと愁はくすぐったそうに笑った。
「その素直な向上心も、君のいいところだと思うけど」
「えー、でもひとつくらいない?」
「遼平くんこそ、俺に直してほしいところはない?」
「ないない! そんなの、俺が愁くんに直してほしいなんて、あのー……あれ、押しつけじゃなくて……」
「おこがましい?」
「そうそれ!」
「それこそ、買い被りだよ。俺だって未熟なところばかりだし……」
愁が未熟なら自分は未熟も未熟、ひよっこすぎてお話にならないと思うが、真面目に言っているのも理解できたので否定はしなかった。
愁には愁の理想があり、目指すものがあるのだから、遼平の主観だけで「そんなことないよ」と安易に言うのは無責任だろう。
いったん手を離して、今度は愁の胸元に顔を埋めるように抱きついた。やっぱりそれも受け入れてくれて、遠慮がちにしつつも頭をなでてくれたので自然と顔がゆるんだ。
「直してほしいことじゃないけど、こんなことできたらなーってのはあるかも」
くっついたまま愁を見上げると「どんなこと?」と優しく促された。
「もっと会えたらいいのになーとか、愁くんと昼休みにいっしょにお弁当食べたりしたいなーとか」
「お弁当……」
「うん。おかずの交換したり……あ、でもそれはできるかも。お弁当持ち寄って公園とか行ったりして……沙絵ちゃんもいっしょにピクニックしてさ」
「楽しそうだね。沙絵もきっと喜ぶよ」
「うん――だからいまのうちにぎゅーってしとくね」
自分でもなにが「だから」なのかはよくわからなかったが、腕に力を込めて愁を閉じ込めた。
なんでもいいんだ、くっつく口実さえあれば。愁も特に指摘することはなく、また頭をなでてくれる。
「愁くんもそういうの、ない?」
ひとしきりくっついてから姿勢を直して、また手をつないだ。じっと見つめていると、愁はほんの一瞬だけ目を見開いてからすぐ視線を落としてしまう。
「なんかあった?」
「いや――なくはない、けれど」
「えーなになに?」
「……厳密に言えば直してほしいことではないから、気にしないで」
らしくなく、歯切れが悪いし目を合わせてくれない。しかしそう言われると気になってしまうのが人のサガというもので。
「遼平くんが、というより俺の問題だし」
「ますます気になるんだけど……夜寝られなくなっちゃう」
というのは冗談だったが、愁は「それは大変だ」と言いたげな表情になって目を合わせてくれた。良心が痛むというか、その律儀さが愛しいというか。
「愁くんが言いたくなければ、大丈夫だから」
どっちも混ぜこぜになって、最初からこう言えばよかったんだなと思いながらまた絡め合った指をにぎにぎした。とりあえず笑ってみせるが、愁は複雑そうな顔をしてしまう。
「その、本当に大したことではなくて――」
言うか言わまいか迷っているのを、遼平はいい子で待てる。愁が待ってくれたように。
同じだな、と思った。どんなことでも、愁は自分を傷つけることは言わないと信じられるから。
「遼平くんが……俺より背が高いこと」
ぽつりと囁くように言う。すぐには理解が追いつかなくて「うん?」と首を傾げたら、愁は「やっぱり忘れてほしい」と視線を外して今度こそ本当に顔を背けてしまった。
「それが、愁くんの……俺に直してほしいこと?」
もちろん即座に忘れることはできないので聞き返してしまう。厳密には違って、愁自身の問題で。これまでの会話の断片をつなげてみるとそういうことになる。
愁は小さく頷いてから、居心地が悪そうに視線をうろつかせた。
「さっきみたいに見上げられると――普段は気にしていないけれど、俺より大きいんだったなと……思い出す、というか」
「……そっかぁ」
「自分でも、こんなどうにもならないことを言うのは、どうかと思うけれど……」
「ううん。俺は……ちょっと、嬉しいかも」
そうこぼすと、愁は意外そうにこちらを見てくれる。遼平もなぜ自分がそう感じるのかはっきりと言葉に表すことはできなかったが、胸の奥がぽかぽかとあたたかくなるのを感じた。
「……恥ずかしいね」
めずらしく、愁は本当に照れているようだった。耳のふちがじわっと赤くなって、そこを指でなぞりたくなってしまう。まださわったことがない、耳の外側や耳たぶ。どんな感触なんだろうと想像すると、身体の中をくすぐられたようにむずむずした。
「愁くんって、昔から背高かった?」
そこばかり見ているとなんだかよくない気がして、話題を逸らす。愁はその意図には気づかず「記憶にある限りでは、背の順では後ろのほうだったかな」と答えてくれた。
「俺は前から数えたほうが早かったんだ」
「そうだったんだ」
「うん。湊と静弥よりもちっちゃくて」
「あんまり想像できないな」
「そう? たまーに湊から、自分がデカくなったの忘れてるだろって叱られる」
その場面を想像したのか、愁がふふっと笑う。
「たしかに、たまに勢いがいいときがあるね」
「ごめん、痛かった?」
「いいや、すこし驚くだけだから」
驚かせてはいるらしい。びっくり箱を開けても動じなさそうな、鉄壁の藤原愁を。それはまた特別で嬉しいような、申し訳ないような。
「ずっと背が高くても、成長痛ってあった?」
「あれは身長に限らず、小学生くらいまであるんじゃないかな」
「え、そうなの? 俺、いろいろ遅かったからかな。中学のときめちゃくちゃ痛かった」
「俺は……あまり、覚えていないかも。個人差があるものだしね」
「そっか……」
ずっと握り合っていたからか、いつのまにか愁の手が同じような体温になっていることに気づいた。そろそろと握る力を強くすると、同じだけぎゅっと返してくれる。それが合図だったみたいに、つるっと「膝が、」と言葉が出てきた。
「すっごく痛くて……でも朝になったら治ってるから、成長痛だろうねって話になって。たしかに、中学になってようやく身長も伸びてきてたから」
また深く考えずに話してしまっていると気づいていたが、思い出したことをただ愁に聞いてほしかった。
「でも中学にもなってると、あんまり親に言えないっていうか……うちの家族、みんな早く寝るし。朝になったら治るのに、夜遅くに痛い痛いって何回も言いづらくて」
「……辛かったね」
愁が労るように、握った手をなでてくれる。しかしまだ言いたいことに辿り着けていなかったので、遼平はゆっくりかぶりを振った。
「一回だけ、ほんとに痛くて我慢できなくて……もう治らないのかもとか、いろいろ考えちゃって怖くて仕方なくて。ベッドで丸まって、痛いし怖いしでひとりで泣いてたことがあったんだ」
本当は成長痛じゃなくて、重い病気だから誰も教えてくれないんじゃないか。
起きたら膝から下が、自分の足じゃなくなってしまうんじゃないか。
そう考え始めると、冷静になればくだらないことのはずなのに、さまざまな怖い想像が際限なく捗ってしまった。
冗談じゃなく、死んじゃうのかも、とすら考えた。だけど。
「姉ちゃんが……そのときからあんまり部屋から出られなかったんだけど、うるさいんだけどって俺の部屋に入ってきて……あ、そんな大声出して泣いてたわけじゃなくてね、鼻啜ってた音が気になったみたいで」
ちょっと言い訳っぽかったなと思ったけれど、愁は真剣に聞いてくれていた。いつだって自分の話をきちんと聞こうとしてくれるところも、好きだ。
「とにかく俺は、痛くて怖くてあんまりまともに話せなくて、痛い、死んじゃうって泣きながら言ったら『死ぬわけないでしょ』って当たり前みたいに言われて……ようやく怖い想像が止まって。姉ちゃん、それ以外はほとんどなにも言わなかったけど、俺が寝られるまでずっと、痛いところなでてくれてた」
たぶん、まともに顔を合わせるのも久しぶりだった。遼平もそのころは、変わってしまった姉とどう接したらいいのか迷うこともあった。
「お姉さん、優しいね」
「うん――俺、あのとき、この先なにがあっても姉ちゃんのこと好きだなって思った」
姉の真意はいまも知らない。たまたま夜に起きていて、本当にうるさかっただけかもしれない。朝になると全てが夢のように姉の姿も痛みもなくなっていて、自分の足がちゃんとそこにあった。枕元にひとつ残されていたお菓子だけが、夢ではなかったことを教えてくれた。
「ごめん、なんかまたいっぱいしゃべって……お茶冷めちゃったね」
ううん、と愁は首を振り、ぎゅっと手を握り直してくれる。
「話してくれてありがとう」
「ありがとうはこっちだよ。聞いてくれてありがとね」
そっと肩に頭を預けてみる。愁は遼平のつむじに頬を寄せて、「遼平くんのことを知れて嬉しいよ」と言った。
顔を見ることはできない角度だけれど、きっと遼平の好きな表情で笑ってくれているのだろう声色で。
「それでね、俺――愁くんにもそう思ってて……なにがあっても、きっと愁くんのこと好きなんだろうなーって……」
どうして? と訊かれたらうまく説明できる気がしなかった。
だけどほんとだよ、ということを伝えたくてまた握った手に力を入れると、愁は「俺も、遼平くんのことが好きだよ」と言ってくれた。同じくらいの力と温度で、握り返される。
「君はとても魅力的だから……俺でいいのか、不安になることがある」
「えっ?」
思わずぱっと顔を上げてしまって、至近距離で目が合う。驚いた顔をしていたのは一瞬で、すぐに愁は口元をやわらげた。
「でも君がそう言ってくれるのなら、俺も自信を持てるよ」
「えーっ? えっ、愁くんも不安になることなんかあるの!?」
「もちろん。遼平くんは素敵だから」
「いや、そんな……愁くんのほうこそ……」
こんなにかっこよくて優しくて強くてまぶしい人に言われると、嬉しいを通り越してひたすら照れてしまう。おろおろしていると、愁が「もっと言っておこうかな」といたずらっぽく笑った。
「え、」
「遼平くんの優しさにいつも助けられているし……過去にネガティブなことを言った人がいたとしても、それが君の魅力を損なうことにはならないよ」
「あー……えっと……」
「君はいつも一生懸命で、どんなときも前を向いていて……そういうところがとても素敵だと思うし、尊敬しているんだ」
「あ、ぅ……」
「遼平くんのことを、そう思っている人間もいるということを覚えていてくれると、嬉しいな」
言葉どころか、息まで詰まってしまう。
顔が熱くて、握り合ったままの手が汗でべたべたすると愁に思われていないか、急にとてつもなく気になってきた。
なのに愁はとても心配そうに「顔が赤いけど、大丈夫かい?」とどこかずれたことを訊いてくるので、なんだか気が抜けて「あはっ」と声を出して笑ってしまった。
「どうかした?」
「ううん……大丈夫、ありがとう。愁くん、大好き」
「……俺も」
ふ、と顔をほころばせる愁を見て、伝えきれないなと思う。
自分以外の人のこと、愁のことも、全部は理解できない。愁だって、遼平のことを全て理解することはできない。同じ成長痛でも違うように。好きだという気持ちを、比べられないように。
恋人というのは、お互いに深く理解し合うものだと思っていた。けれど本当は、どうしてもそっくりそのままを理解できないと知るものなのかもしれない。
ほんのすこしのさみしさを、お互いに持ちながら。それでもずっと、愁が好きだと思う。
「キスしても、いい?」
うん、と答えるより先に、目をつむってくれるところも、含めて。
fin.

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