憂鬱から玄関先でもたもた靴を履いていたら、母親からお小言が飛んできた。
「静弥、ちゃんと湊くんに言いなさいよ? お迎え行くからね」
「わかってる……」
「だからお母さんから言おうかって言ってたのに」
「いい、自分で言うから」
もう何度目かもわからないやりとりだ。このままうずくまっていたら先に母親が外に出て言ってしまうかもしれないから、さっと立ち上がって「いってきます」と玄関を開ける。
「せーやおはよー!」
門扉の前では湊がいつもの調子で待っていた。もしかしたら母親同士のやりとりですでに伝わっているかもしれないという心配もあったが、それはなさそうだ。湊は隠し事がうまくない。
「おはよう湊」
遼平が転校してしまってから、行きも帰りもふたりきりになった。友達というより、兄ふたりと弟ひとりみたいな関係だった。人懐っこくてあったかくて、ちょっと泣き虫の遼平は新しい環境でもうまくやっているだろうか。
湊と、昨日のテレビアニメの話や今日の学校の休み時間に遊びたいことをいろいろ話しながら登校する。毎日のことだからこそ、言わなきゃ、と何度も思うのになかなか切り出せない。今日こそ言わなきゃ、明日こそ言わなきゃ、をくり返してはずるずる延期されて、とうとう逃げ道がなくなってしまった。
「静弥、なんか今日元気ない?」
しばらくぼんやりしていたせいで、湊が黙っていたことに気づけなかった。こちらを覗き込んで、静弥を心配そうに見上げる。頬骨の上に、この前木登りをしたときに枝が引っかかった細かい傷が残っている。似たようなものが、静弥の膝にも。
「あのね、湊……」
目を合わせられなくて、その傷を見る。
「僕、今日から……塾に行くんだ」
「塾?」
「うん。だから……いっしょに帰れなくて、母さんが迎えにくるから……」
なにから伝えればいいかわからなくて、言わなきゃいけないことから言葉にしていく。湊はうんうんと聞いてくれる。
「今日だけじゃないんだ。水曜日と、金曜日も……」
「へえー、塾ってそんなにあるんだ」
「うん……しばらくしたら、変わるかもしれないけど。湊、前見ないと危ないよ」
ずっと顔を覗き込まれているのがいたたまれなくなってつい話を切ってしまう。ランドセルを背負い直す、かちゃんと軽い音が鳴った。湊がいくつか置き勉をしていることを静弥は知っている。
ふたりだけの、秘密。
「そっかあ。静弥、受験するんだよね」
「――知ってたの?」
足が止まる。湊もつられて止まり、ばつの悪そうな顔になった。やっぱり隠し事はうまくない。
「塾は知らなかったけど、父さんと母さんが話してるの、ちょっと聞いた」
「そっか……」
前から決まっていたことだ。中学は桐先に行く。それを不満に思ったことはないし、勝手に決められたことでもない。自分でちゃんと選んだ。でも遼平がいなくなって、言い出しづらくなった。三人だったのがふたりになって、ひとりとひとりになってしまう。ずっといっしょに生きてきたのに。
「桐先に行くなら……今のうちに塾に行ったほうがいいんだって。だから、遊べないことも増えるかも」
「そうなんだ」
先に歩き出したのは静弥だった。湊もあとに続く。静弥の足取りは重く、すぐに湊が追い抜いてしまう。後頭部にまた寝ぐせがついているのが見えた。
湊のことはなんでもわかっていた。湊も、静弥のことはなんでもわかっていたと思う。だけどいつしか、ぜんぶがぜんぶ同じではないんだなと感じることも増えてきた。
それに対する感情がなんなのか、静弥にはわからなかった。「親友」という言葉を知ったとき、湊は「おれたちのことだ」と笑っていた。そのときの照れくさいような、誇らしいような、なぜだか苦しい感情のことも。
湊も静弥も、ほかの友達がいないわけじゃない。けれどお互いがいちばん近しく、いっしょに下校してそのまま遊ぶのがいちばんしっくりきた。くつ下や手ぶくろがそうであるように、ふたりでいるのが当たり前だったから。
「でも明日は遊べるってことだよな」
「うん」
「木曜も」
「うん」
湊が振り向いてにっと笑う。
「塾、かっこいーじゃん。どんなところだったか明日また教えてよ」
ぽん、と目の前にプレゼントを出されたような気持ちになった。湊の、こういう何気ない一言がこのごろとてもくすぐったい。
遼平はよく湊をヒーローだとか、勇者だと言っていた。湊はそれが満更でもなさそうだったし、静弥も正しいと思っている。湊にはなにか、魔法のような力があるんじゃないかとたまに感じるのだ。周りを惹きつけてやまないなにかが。
「――うん」
「やった、楽しみ」
「……僕も」
塾自体はこれまでに何度か見学などで行っているから、どんなところかは知っている。けれど、湊が楽しみにしてくれるのが嬉しくて黙っていた。
「そっか、おれも……ちゃんと探さなきゃ」
「なにを?」
「ううん、なんでもない!」
小さな声で湊がなにかつぶやいた気がしたけれど、学校に着いたので話は終わる。湊がかけてくれた魔法のおかげで、家を出るときの憂鬱は軽くなっていた。他の誰に言われてもこうはならないから、不思議な気持ちだった。
まだ朝なのに、明日がやけに楽しみになる。
***
誰にも内緒で清葉弓道場に通うようになり、しばらくして西園寺先生から「湊はどこの中学校へ行く予定なの?」と尋ねられた。稽古が終わったあと、愁と三人で少しだけ雑談をすることがある。この時間も楽しかった。愁も西園寺先生も、湊が普段接する学校の先生や親、友達とは違った雰囲気があるため新鮮でわくわくする。湊が自分の地区の中学を答えると、西園寺先生は「あら」とこぼした。
「弓道部がない中学校ですね」
「そうなんですか?」
「ええ。まあ弓道部があるところは少ないですからねえ。仕方がないことかしら」
「へえ……愁は? どこ行くの?」
「桐先だよ」
「きりさき……え? 桐先って、あの桐先? 受験するところ?」
「そうだね」
「先生、桐先には弓道部があるんですか?」
「そうね。このあたりなら、一番立派な弓道場があるところですよ」
「知らなかった……」
桐先中学。このあたりでいちばん大きな学校で、中学で受験をするとそのまま桐先高校にも行くことになると聞いた。湊とは特に縁のない学校だと思っていたが、そうでもないらしい。
幼なじみで親友の静弥はそこに通うため、塾へ行くようになった。中学受験のために塾へ行くなんて、かっこいい。さすが静弥だな、と思うといつも湊自身が褒められたような気持ちになる。遼平がよく「静弥は賢者だよね」と言っていたが、湊もそのとおりだと思っていた。賢くて優しくて、おとなしそうに見えるけれど湊と同じくらい動き回って遊べる相手だ。
けれど塾に行くようになってからは遊べない日もできてしまって、そのかわり湊は弓道場に通うことを決めた。弓道経験者の母親にはもう少しうまくなってから見せてあげたいし、静弥にもそうしたかったから言っていない。
「桐先って、やっぱ塾にに行かなきゃ難しいかな?」
「どうだろう、うちは家庭教師だけど」
「愁んちって家庭教師もいるんだ。桐先の弓道部って、すごいの?」
「すごいかどうかはわからないけど、何度も全国大会に行く実力はあるよ」
「それってすごいじゃん。そっか、強いんだ……あ、じゃあ愁、またな」
「うん、また」
愁と別れて、自転車を漕ぎながら考える。
静弥が桐先中に行く予定と知ったときは、実感が薄かった。別々の学校へ行くこと、という想像がうまくできなかったのだ。学校が違っても家は目の前のままだし、お互いの部屋の窓を開ければ顔も見える。
けれど実際、下校時に学校で母親の迎えを待つ静弥と別れてひとりで歩く帰り道の、なんと味気ないことか。遼平が転校してしまったときもさみしかったが、静弥がいたからかなり気が紛れていたことを思い知った。これに慣れてしまうんだ、中学になったら、行きも帰りも毎日こうなるかもしれないんだ、と考えるとひどく心がすうすうした。
静弥が塾へ行くことになったと教えてくれたとき、最初はやけに元気がなかったのはこういうことだったのだろうか。湊には想像の及ばなかったことを、静弥は知っていたのかもしれない。
けれどもし、自分も桐先中へ行くとしたら。静弥だけでなく愁もいっしょだ。あわよくば、静弥も弓を始めてくれたら。湊は自分の頬が緩んでいることに気づいた。だってそんなの、絶対楽しい。
「よし、」
誰に言うでもなく独りごち、ペダルを強く踏み込む。静弥には、話してみよう。弓のこと。
またふたりだけの秘密が増える。それは素敵な企みに思えて、湊の心を浮き立たせた。静弥はよく「湊は隠し事があってもすぐ顔に出ちゃうよね」と苦笑するが、今回はきちんと隠せているはずだ。それに、静弥とふたりで共有する秘密はとても上手に隠すことができる。不思議なことに。
自転車で進めば進む分、時間も進めばいいのに。明日が待ち遠しくて、自然と頬は緩んだままだった。
fin.

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