ひじょうに、めずらしいものを見ているなという感想を抱いた。となりにいる倉持のことだ。
先輩後輩の二遊間コンビとして、さらには恋人同士として、倉持とはそれなりの時間を過ごしてきた。
同級生や後輩を相手にしているときは、半ばじゃれるみたいに声を荒らげたりする様子は見かけるが、グラウンド外で、さらにいえば亮介の前で、こうも気が立っている姿を見るのはめずらしいことだった。
テイクアウトの牛丼大盛り温玉つきとインスタントのみそ汁というなんとも大雑把で適当な男子大学生らしい食事を済ます前、最寄駅で落ち合ったときからすでに気が立っているようであった。
そんな日くらいあるだろうとさほど気にとめず、亮介は極めて普段どおりに接していた。気づいている以上たいした意味は成していないが、倉持自身もその苛立ちを伝わらないよう努めているらしかったので。
この後輩(兼、恋人)は、不機嫌をあらわにしたまま亮介に接することがまずない。
だからものめずらしさもありそのうち機嫌も直るだろうと楽観していた。しかしどうにも持ち直してこない。
とりあえずつけているテレビでは倉持の好きなバラエティ番組がやっているのだが、普段は見ながら笑ったりするのにまったくもって頭に入っていないようでくすりとも笑わない。倉持だって、もうそろそろ自身が苛立っていることを隠せていないと気づいているだろう。
さて、どうするのが最善だろうか。
亮介にとって、倉持はわかりやすい。もともと二遊間コンビとしてあうんの呼吸を築いてきた。野球をしているときのみならず、普段でもなにを考えているのかおおよそ汲み取れたりもする。
倉持は冷静に周りを見ることのできるすばらしい洞察力がある反面、カッとなると周りが見えなくなることが多々ある。
野球のプレーでたとえるならば、相手投手にうまく翻弄され出塁できなかったとき、盗塁時にセーフだと己では確信していたのに、審判からアウトを宣言されたとき、ベースカバーに入った際にアウトを悟った走者がそれでも激しく滑りこんできたときなど。
特に自分が感じた手応えを不本意に覆される、といった状況に弱い。
亮介が知る限りでは改善されてきているのだが、性格というのはすんなり変わるものでもない。まず口数が減るし、いつものような陽気さは鳴りを潜める。
ただでさえ目つきの悪い三白眼をもっと鋭くして、下手すれば人でも殺しそうな形相になる。さすがにいまはそこまでひどくないけれど。
そういったときは決まって、背中を一回叩いてやっていた。初めてそうしたときも、特に深い意味はなかった。慰めたかったわけでも咎めたかったわけでもない。
「いって!」という悲鳴とともに亮介を見た倉持の顔が、なんだかとてもあどけなく呆けたようすだったのがやたらおかしかったことと、それをごまかすために「集中しろよ」と告げて顔を背けたことをよく覚えている。
暫時おいて「はい!」と素直に威勢のよい返事が届き、なんだこいつもかわいいところあるなと考えたことも。
野球は失敗がつきもののスポーツで、うまくいかなかったことをいちいち気にしていたら埒が明かない。失敗しないことが当たり前のプレーもある。倉持の帽子に『集中』と書かれるようになったのはこのあとだ。切り替えて、目の前のことに集中する。倉持はいまでもいかに集中できるか、を重視している。
先輩と後輩であるときはそうして背中を叩くだけでよかったが、恋人に関係性が変わってからの倉持はより一層亮介に対して弱みや未熟なところは見せまいと気を張っているらしかった。
べつに必要ないのにな、と思いはすれどそれが倉持のプライドだというのなら無碍にできまい。亮介こそ、自身のプライドのために倉持を突き放そうとしたこともあるのだから。
もしかしたら今日の練習で思うようにプレーができなかったのかもしれない。ほとんど想像できないことだが、人間関係でうまくいかないことがあったのかもしれない。
倉持は、尊敬する年上の亮介の恋人であることを気負っているようなふしがあるが、亮介とて恋人に一切頼られないよりは頼りにされるほうがずっといい。
兄貴気質が染みついているからか世話を焼くのだってやぶさかではない。問題は、亮介へかんたんには甘えないと決めているらしい意志をどうやってとろかすかだ。
「くらもち」
自分から発したくせに、配分したよりもずっと甘ったるい声が出た。
恋というのは厄介だ。こんなに甘い声を出して、きっとみっともなくゆるんだ表情をしているに違いない。
呼ばれてこちらを向いた倉持も、戸惑ったように目を見開いていた。気にせずその背に両手を回して、すこし強引に引き倒す。
「な、ちょっ……! 亮さん?!」
ソファのスプリングがぎしぎし不満気に鳴っている。すぐ起き上がろうとした倉持をはなすまいとぎゅっと抱きしめて、背中を叩いた。
もちろん昔のようにばしりと激しい叩き方ではなく、赤ん坊をあやすようにとんとんとやさしく。
「あの……どうしたんスか?」
どうしたはこちらの科白だというのに。
だが尋ねる気はない。話したいならいつでも聞くし、そうでないなら無理に話させる気もない。
初めて背中を叩いたときもそうだ。亮介に深い意図はなかった。このままだとこっちにも悪影響がありそうだなと判断しただけで。
「集中しろよ」といったのはおまけだ。二遊間コンビを組んでまだ日が浅いころだったが、苛立つ倉持にとって面と向かって「切り替えろ」だの「引きずるな」だの「顔怖いよ」だの告げるのは違うと感じたから。
倉持はとても聡い。
周りの空気を機敏に読み取り、最適な行動が取れる。だから、人間関係でうまくいっていないのは考えがたい。視野が広いのはプレー中もそうだし、身体能力の高さから器用になんでもこなせてしまう分、気も多い。けれど最適を選び、集中すれば最善の結果も出す。
亮介は、倉持のそんなところを好ましく思っているし、敬意も払っている。
だが亮介の前でかっこつけようとして全然きまっていない倉持を見るのはもっと好きだ。
ばかでかわいい、いとおしいこいびと。
もぞもぞとささやかに抵抗していた倉持の動きがおさまったところで手をゆるめる。
亮介の顔の横に両手をついて、倉持がすこし起き上がった。こちらから引き倒したけれど、それによって反対に押し倒されたような体勢になっている。
見上げた倉持は、なんともばつの悪そうな、気恥ずかしそうな顔をしていた。甘やかされたと気づいているのだろう。察しのよいところも気に入っている。
「ねえ、キスしてよ」
だからめずらしく、ねだりたい気分だった。
すこしだけ逡巡するように視線をさまよわせてから、倉持のくちびるがやわらかくふれた。
食んで、ふれあって、感触を確かめ合うだけのキス。肩口にそえていた手のひらで、倉持の首すじをなでる。
「は、」
鼻から抜けるようなあちらの吐息に気をよくしていたら、反撃とばかりに舌が入ってきた。長い舌は亮介の舌を探り当てる。
こすり合わせられると、つま先のほうからさざ波のように快感が昇って背骨に響いた。
普段ならここで亮介も負けじと反撃に転じるが、自分からねだったわけだしこのままほどこされるものに甘んじていたくなる。
上から覆いかぶさるように口づけられているから、すこし苦しい。こんなにいとおしい苦しさは、倉持と出会うまで知らなかった。
倉持以外からは、受け取りたくない。
この春から倉持は、亮介とはべつの大学に進学した。同じリーグだが亮介の大学は去年の入れ替え戦で二部に降格したため、一部リーグ在籍の倉持の大学とは試合で会うことがない。球場で会うこと自体はあっても。
それでも大学生と高校生だったときよりは格段に会えるようになったし、いまだってこうしてふれあっている。
『俺、亮さんと同じ大学に行こうかなあ。そしたらまた二遊間組めるし』
去年の秋に倉持が軽い調子でそんなことを言ったとき、亮介は「それは違うだろ」と強い口調で返していた。
また倉持と二遊間を組みたいという気持ちが、亮介にもないわけではない。だけど倉持の野球にとっての目標は、亮介と二遊間を組むことではないはずだ。
加えて倉持のもとへ届いているスカウトには、自分の大学が含まれていなかった。せっかく最高学年になってから副主将として、時には代理主将としてチームに貢献して結果を残し、その実績を鑑みた上で倉持をスカウトしてくれた学校を蹴ってまで、自分のいるところに来てほしいとは思わなかった。
青道に来たときもそうだったが、自分の知らなかったすごいやつらと野球をすることが亮介は純粋に楽しかった。
それは大学野球という舞台でも同じく、高揚し触発されることもたくさんあった。
だから倉持にも、自分自身を最も成長させることができる最適な学校へ進んでほしかった。
お互い、野球を続けさえしていれば二遊間コンビを組む機会はまた訪れるはずだ。いつになるかはわからなくても、それだけを優先するようなことはしてほしくない。
『……そうですね、すんません。もうちょっと自分で考えてみます』
神妙な声で返事を寄越して電話は切られた。
後日届いた、進路が決まった旨の連絡には亮介とは別の大学の名前があった。
もしもあのとき、「倉持のしたいようにすれば」などと答えていたらと考えることもある。
しかし結局のところ、倉持は別の大学に進んだ気もする。野球の前では、我々は恋人同士ではなくただの選手だし、そうであるべきだ。
きっと、倉持も同じように考えているからこその選択だろう。この野球に対する真摯さが、自分とかけ離れていなくて本当によかった。
「亮さんはなんでもお見通しなんすね」
「さあ? 倉持がわかりやす過ぎるんじゃない?」
だってなにに対して苛立っているのかまではわからない。かっこつけたい性格なのは、お互い様だから。
「今日、二年前の試合の話題が出て」
ぽつり、と話し始める。
「あの稲実戦、見てたやつが」
降り始めの雨みたいな、ゆっくりと言葉を選ぶような話し方だった。
「なんであのセカンド、最初から出てたんだって。途中で交代したけど、最初から動き悪かっただろって」
声がふるえるのも隠さずに、感情と感情のあいだを無理やりこじ開けるみたいに。
「弟のほうが、最初から出てれば、勝てたんじゃねえのって、言われて」
声だけではない。倉持の全身が、怒りでふるえている。
「……で、そいつのことぶん殴ったの?」
当事者になっていたのは、亮介自身だったらしい。こちらに覆いかぶさったまま、苦しそうな顔をしている倉持はゆっくりかぶりを振った。
「頭ン中ではひゃっぺんくらいブッ殺したけど」
「おーこわ」
「亮さんだけには言われたくねえ……」
すこしだけ口元がほころんで、すぐに引き締まる。獲物を射抜くような、鋭い目線が亮介をとらえていた。
「勝負にたらればはねえだろって返して、この話は終了」
「……それだけ?」
「それだけ」
倉持にしてはずいぶんと穏便なオチだ。意外に思っていると「ほんとは、」と強い口調で倉持は続けた。
「ほんとはお前に亮さんのなにがわかるんだって、亮さんがどんな想いであのグラウンドに立ってたのかって、言ってやりたかったしぶん殴りたかった。でもそれじゃあ、そいつが言ってることが正しいって暗に認めてるみたいな気がしたんです。俺は――」
すう、とそこでゆっくり息を吸う。
「俺だけは、なにがあってもあのときの亮さんの選択を肯定したい」
睦言でも交わすようなちかくで、意識はずうっと遠いところを向いている。ふたりが見ている景色はきっとは同じものだ。
何度も何度も思い返し、記憶と出来事の距離が離れてゆくうちに、美化されてしまっているかもしれない。
構うものか。美化されたのちに風化し、記憶の中に埋もれていっても、過去が消えることはない。過去があるから、このいまがある。
「そっか」
もう一度倉持の背中へ手をのばし、ゆっくりとさする。
「俺の代わりに、傷ついてくれたんだ」
ずっと張り詰めていた倉持の表情が、くしゃりと泣きそうになって、亮介の顔の横に自分の顔をうずめた。ついでにぎゅうぎゅう抱きしめられたのも受け入れる。
「俺の代わりに傷ついて、怒ってくれて、ありがとう」
倉持は答えなかった。亮介は気にせず続ける。
「俺が今、あの試合に未練や後悔がないって言っても、負け惜しみやつよがりに聞こえるかもしれない。だけど本当にないんだよ。結果は悔しいけど。三年間過ごしてきた仲間とあのグラウンドに立って、一年コンビ組んできた倉持がカバーしてくれて、ずっと恐ろしかった弟にあとを託せて。それに、まあそれこそたらればの話だけど、もし準決勝でけがをして決勝で途中交代になることを事前に知っていたとしても、俺は絶対同じようにあそこでホームに突っ込んだとおもう」
手を抜くことなんてできない。
グラウンドに出てしまえば、なんだって全力だ。そうすることしか、できないから。
「俺はそういうやつだから、」
「好きです」
急に耳元で返事がきたから驚いてしまった。
「俺は亮さんのそういう、強くてカッコいいところが好きです」
「うん――俺も、倉持のそういうとこ、好きだよ」
亮介もあの試合は、いろんな整理がついてから一応録画を見ていた。自分のプレーだけでもと。
ひどいな、というのが率直な感想だった。普段なら届いていたかもしれない打球に追いつけない自分の無様な姿。よく誰からも指摘されなかったなと思った。
だがそれはつまり、亮介がこれまでにチームで築き上げてきた信頼が、いかに絶対的なものだったのか、ということだ。
ケガをしているのを前提に見ればひどいものではあったが、知らずに見て明らかに気づくほどのおかしな動きではなかったと、信じたい。際どい打球も、亮介が捕れなかったのならしょうがないと、周りが信頼してくれていたと。
意地と執念とプライドが、あのときの亮介を動かしていた。
いつだって、いまも、亮介をグラウンドで突き動かしているのはそういったどろくさいものだ。ケガさえしていなければ、もう少し体格に恵まれていれば、なんでもいいからひとつでも天賦の才能があれば、なんていう言い訳が大嫌いだ。
それらをぐちゃぐちゃに踏みつぶした上に、小湊亮介は立っている。
もう影に追いかけられなくたって、胸を張って立つことができる。
「――俺って、ちょろいですよね」
「なんだよいまさら」
「そこはもうちょっと、そんなことないよとかフォローしてもらうところでは……」
「素直なことはいいことだよ」
心にもないことを口にするわけにもいかない。少なくとも亮介は、倉持の素直さや扱いやすさが好きだ。もちろんいつでも総じて扱いやすいというわけでもないが。
ただ盲目に従順なのではなく、ときたまこうして自分の主張を頑として貫こうとするところも。
それが失敗に終わると、格好がつかない、情けないと倉持は嘆くが、格好よくて情けなくない倉持は、それこそ亮介の手に余る。実に困るので、これも口にはしないけれど。
「俺は、どうやったって亮さんに敵わないようにできてるんだ」
すねたような口調で倉持が言う。亮介から引き倒したとはいえ、覆いかぶさる姿勢のままよく言えたものだ。なんて反論は胸中に秘めて、手をのばす。いらえは返さず後ろ頭をなでてやると倉持からまた口づけてきた。
倉持はよく、亮さんには敵わない、と嘆いたり笑ったりする。
亮介からするとまったく逆だ。自分が誰かをこんなふうに甘やかしたり、ねだったり、甘えたりするだなんて夢にも思わなかった。
あのころはまだ、ただの先輩と後輩だった。たったひとつの選択で、こんなにもたやすく世界は変わってしまう。
敵わないのはこっちのほう。かっこつけ同士、どうにものっぴきならないことばっかりだ。
fin.

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