あ、これ夢だ。隣にいる亮介が車を運転している。いつも自分たちが乗っている、倉持の愛車を。だからこれは夢だ。
「なんか甘い匂いしない?」
突然問いかけられて、鼻に意識が向く。ほんとだ、なんの匂いだっけこれ……あ、亮さんちゃんと前向いて、頼むから――。
そこで目が覚めた。目に入る自室の天井に安堵する。途中から夢だと気づいたまま夢を見るのは、どうしてこんなに焦れるのだろう。
「来年の誕生日は旅行にでも行こうか」という亮介の提案を、本来なら実行するはずだった。けれど時勢的に諦めざるを得ず、週末も大人しく過ごして誕生日当日。遠出の予定を夢に見るほど未練はあるらしい。亮介が運転していたのは望みではないのだが。
「……ホットケーキ?」
しかし匂いは夢ではなかったようで、扉の向こうから香ってくる。時計を見るとアラームより少し前だった。
「あれ、おはよう。早いじゃん」
部屋を出ると、すでに身支度を整えた亮介がキッチンに立っている。
「おはよう、っすけど……え? なんで?」
ふらふら近寄ると、透明な蓋をされたフライパンの中でホットケーキが膨らんでいた。亮介はそっけなく「誕生日だろ」とだけ答える。
「はい……」
ぴぴぴ、とキッチンタイマーが鳴ったので亮介がフライパンの蓋を開けた。
「え? すげー分厚くないっすか?」
「ふつうだよ」
フライ返しでひっくり返し、焼き色を確認してから皿に移す。きれいなきつね色で、ふっくらとしたそれはどう見ても倉持が持つイメージ上のホットケーキより二倍は分厚さがあった。
「いやいや、店のホットケーキじゃん!」
「大げさだってば」
やはり返答はにべもないが、照れているのだとわかるのであんまり気にしなかった。新たなたねを高い位置からフライパンに落とし、タイマーをかけてまた蓋をするのを見守ってからその背中に抱きつく。亮介はひとこと「こら」とたしなめたが、抵抗はしなかった。
周りの空気ごと全部むさぼるように、大きく息を吸った。亮介自身の匂いと、ホットケーキの甘い匂いで身体中が満たされる。なんで息って吸ったままでいられないのかな。
「誕生日だから作ってくれたんスか?」
「そうだよ」
「旅行行けなかったから?」
「さあね」
「……すっげー嬉しい」
腰に回した腕を、さらにきつく巻きつける。
「苦しいってば」
「亮さんがホットケーキ作れるなんて知らなかったし」
「バカにしてない? こんなの誰でも作れるだろ」
そうかもしれないけれど、少なくとも倉持が作ったときとは様子が違う。亮介は料理が得意ではない。だから余計に驚いた。
邪魔だからさっさと顔洗っといで、と追い払われ、身支度を終えてリビングに戻るとテーブルには焼き立てのホットケーキ。あとは端っこがすこし焦げたベーコンエッグ。
「亮さんって実はホットケーキのプロ?」
「なんだよそれは」
たっぷりのメープルシロップをかけてほおばったそれは、口の中でとろけていくような未知の食感だった。マジで聞いてないんですけど、こんなに一緒に過ごしてるのに。
「だってこんなの、食ったことねーもん」
「ヨーグルト入れてるからじゃない?」
「え? なんで?」
「知らない。母さんに聞いて」
どうやら小湊家のレシピだったらしい。こっちが手放しに褒めるからか、そうやってすぐねたばらしするところが好きだと思った。決して自分の栄光にしないところ。
「生きててよかった……」
「オーバーだなあ、相変わらず」
ようやく亮介が笑う。夢じゃなくてよかった。旅先での非日常が魅力的なのは間違いない。だけどありふれた日常を、こうしてふたりで過ごせてよかった。
出かける前にキスをする。いつもより甘い身体を抱いて、あたらしい一年と、あたらしい一日が始まる。
fin.

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