さよならを言うときくらいは、いちばんひどくしてほしかった。
もう二度と、こうして会うことはない。おしまいは、ひどく優しく帳を下ろす。ふたりには似つかわしくない、澄み渡る空が遠い。忘れることのできない秘密を飲み込んで、この身に隠して生きていく。きっといつまでも、残った傷あとを愛しむ。それが子どもにできる精いっぱいで、大人になったら忘れるよと笑うこの人への抵抗で。
「それでは、」
惜しむものなど何もない。真っ直ぐに立って、背筋を伸ばして、優等生らしく振る舞える。ずっとそうしてきたから。
だけどこの人の前では、そうではない自分を何度も晒した。どろどろに溶かされて、みっともなく喘いで。もうあんなのは、二度とないだろう。これから先、誰と出会おうとも。
「静弥」
こういうときは、笑わないんだな。
哀しんでいるとは思いたくなかった。清々する、みたいな顔をしてほしかった。いつもみたいに、この空みたいに、からから笑ってほしかった。初めて笑ってほしいと願うのが、こんな瞬間なんて。
さようなら、と口にしようとしたのに、気づいたら強い力で引き寄せられていた。甘いような、さみしい匂い。あの部屋の中で何度も肺を満たした、この人の匂い。
「好きだ」
何も言えなかった。苦しいくらい、両腕の中に閉じ込められて、身動きひとつ取れやしない。どうして、とも、ようやく、とも思えなかった。もう遅いのか、まだ間に合うのか、わからないから突き放すことも抱きしめ返すこともできない。
雨が降っていたらよかったのに。頬を濡らすものをごまかすことができたから。だけど空はどこまでも晴れている。
「――お別れをするのが、下手すぎませんか」
「うん、ごめんな」
ばかなひとだ。大人のくせに、大人なのに。同じように嫌いだと言ってくれればよかった。もっとひどく傷つけてくれればよかった。そうしたほうがいいかもしれないと、考えたことはあったのだろうか。年を重ねるだけで大人になれれば、誰だってこうして悩みはしない。
嫌いなところはたくさんある。行きつく先もわからない。だけど、もし、ここで突き放したとして、さよならが下手くそなこの人が、ひとりで泣いたりしたらかわいそうだから。
そっと、手をまわして背中にふれる。びくりと震えた大きな身体が、ばかみたいにかわいかった。
fin.

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