道路の端には、まだ先月末に降った雪が残っている。まだ春は遠いね、とごくありふれた世間話をしているうちに『うちの温室ではそろそろ春の花が咲くよ』なんてありふれていない返信が来て、招待してもらうことになった。
コンサバトリー、というらしい。イギリスの伝統的なガラス張りのガーデンルームで、藤原家の庭では温室として使われている、と愁は説明した。自前の弓道場に温室に、あの広大な庭の中にはまだ遼平の知らないものがたくさんあるような気がする。
『おうちデートだね』と送ったときの、既読マークがついてから『そうだね』と短い返事が来るまでのタイムラグも、好きという気持ちが埋め尽くす。大きな門の前に、愁の姿を見つけた瞬間駆け出していた。
「愁くん!」
先ほど遼平が送ったメッセージを確認していたのだろう。スマホから顔を上げ、こちらを認めた愁が表情を綻ばせる。この瞬間を目にするたび、毎回好き! と叫んで飛びつきたくなる。
「いらっしゃい、遼平くん」
「ごめん、寒かったよね? 待たせちゃった?」
「そんなことはないよ。時間通りだ」
もちろん往来なので、安易に飛びつくようなことはしないけれど。
門をくぐり、敷地内に入ると愁が「こっちだよ」と案内してくれる。この家の庭は冬でも緑が豊かで、それも含めて遼平はこの場所が好きだった。手間暇をかけられているのが見て取れるのも心地いい。
「あ、ピアノ……沙絵ちゃん?」
歩いているうちに耳に届いたのは、繊細な音色だった。愁の妹、沙絵の演奏は、バイオリンも含めて何度か聞いたことがある。たしか今日は、これからお稽古の時間だったはずだ。
「最近、古いピアノを調律してもらったんだ。母が昔使っていたもので、ずいぶん使われていなかったから人に譲ることになって。それで沙絵が、その前に温室で弾いてみたいと言ってね」
母屋である屋敷の裏に回ると、遠目からでもその建物の美しさがわかった。白く磨き上げられた柱と、繊細な装飾が施されたガラスのパネルで壁も屋根もできており、太陽の光をやわらかく反射している。ガラス越しに、外の庭とはまた異なる様々な緑や花々の様子も見えた。そして、ピアノを弾いている沙絵の姿も。
草花の中でピアノを弾く様子は、まるで絵本の中の世界のようだ。近づいていくと、途中で遼平たちの来訪に気づいたらしく、沙絵は演奏を止めて嬉しそうに手を振ってくれた。遼平も同じく手を振り返す。
「すごいね、こんなにきれいな建物なんだ」
「ありがとう。気に入ってくれたのなら嬉しいよ」
中に入ると、様々な植物の芳香が満ちていた。入口はアイビーがカーテンのように揺れており、温室だけあって暖かい。花々は、きっちりと整備されているというより様々な種類が咲き乱れていて、まさにイングリッシュガーデンの風情だ。天井にはシーリングファンがついたシャンデリアがあり、小さなテーブルにはお菓子も準備されている。植物を育てるための温室、というより植物を楽しむための立派な部屋だ。
駆け寄って来た沙絵がぺこりと頭を下げて笑う。
「遼平さん、ようこそいらっしゃいました」
「こんにちは、沙絵ちゃん。さっきの、きれいな曲だったね」
「ありがとうございます。すみれという曲なんです」
「へぇ、じゃあ春の曲なんだ」
「はい。あ、にいさま。東条さんが今お茶の準備をしてくださっていますよ」
「ああ、沙絵も手伝ってくれてありがとう」
そんな話をしているとちょうど、ティーコゼーを被せたティーポットを手にした東条さんがやって来た。
あいさつを交わし、愁と東条さんが会話をしているのを見ていると、くいっと上着を引っ張られた。振り向くと沙絵が口元を手で覆って、何か伝えたそうにしていたので身体を屈める。
「実はにいさまも、昔このピアノを使われていたんです」
そっとひそめた声で耳打ちされ、「えっ」と声が出た。
「お母さんが使ってたって……」
なるべく同じボリュームで返すと、沙絵は真剣な面持ちで「はい」と答えて続ける。
「にいさまも、弓を始める前に少しだけピアノをされていて……でもわたしが頼んでも、弾いてくださらないんです。遼平さんが頼んだら、もしかしたら……」
それ以上続かなかったのは、こちらがこそこそと話しているのに気づいた愁に「どうかした?」と声をかけられたからだ。ふたりして「なんでもない!」と首を振ると、愁は不思議そうな顔をしたがそれ以上追及することはなかった。
この場で愁がピアノを弾く姿を想像してみる。 うん、似合う。それこそおとぎ話の中の世界のようだ。
「お嬢様、そろそろお時間ですね」
「はい。それでは遼平さん、ごゆっくり」
「うん、ありがとう沙絵ちゃん。お稽古がんばってね」
「ありがとうございます」
「いってらっしゃい、沙絵」
「はい、にいさま。いってまいります」
こちらに手を振りながら、沙絵は温室を出ていった。東条さんも恭しく頭を下げて外に出ると、扉を閉める。ふたりの姿が見えなくなると、愁は「お茶にしようか」と口を開いた。遼平もうなずき、テーブルの席につく。
白いレースのテーブルクロスがかけられたそこには、クッキーやスコーン、マドレーヌなどの焼き菓子に色とりどりのジャムも並んでいる。真ん中には、おそらくここで育てられたのであろう小ぶりのバラまで飾ってあった。
「なんか、豪華だね」
「うん……遼平くんを温室に呼びたいと言ったら、東条さんや家の人たちのほうが、なんだか張り切ってしまって」
愁は少し照れくさそうに言ったが、これだけ立派な場所なのだから本来は遼平がこうして愁とふたりきりで使うような場所ではないのかもしれない。もっとこう、ご両親のお知り合いとか、親戚の方々とか、そういう人たちを招いてもてなすための場所な気がする。
ティーコゼーを外し、カップに温かい紅茶が注がれた瞬間、ふわっと華やかな香りが広がった。花とはまた異なるその香りに、自然と心が安らぐ。
「いい匂い」
思わずつぶやくと、愁は嬉しそうにほほ笑んでくれた。花や紅茶の香りに負けないほど、それは甘くてやさしかった。
たまにこうして、目線や仕草だけで愁の気持ちが伝わってくることがある。メッセージのやりとりや電話も好きだけれど、やはり直接顔を合わせる時間は格別だ。
愁はあまり口数が多いほうではないし、気づけば遼平ばかりが話していることも多い。しかし反省して「また俺ばっかりしゃべっちゃった、ごめんね」と伝えると、いつも「遼平くんの話を聞くのは好きだよ」と言ってくれる。
それが本心だということを、表情や声がやさしく教えてくれるのだ。
*
「いろいろ見て回ってもいいかな?」
「もちろん」
お茶とお菓子を楽しんでから、ふたりで温室内を散策する。ガラス張りの天井から自然光が降り注ぎ、部屋の中なのに木漏れ日があるのが新鮮だった。
他愛のない話や、弓の話をしながら室内を見て回る。色とりどりの花々が目に鮮やかで、それを眺めていると心が洗われる気がした。
チューリップの鮮やかな赤、プリムラのやわらかな黄色やピンク、パンジーの深い紫。バラやカトレアは香りも華やかで、遼平が「すごいね」とつぶやくと、愁もまた笑った。
こんなに贅沢な空間を、ふたり占めできることが嬉しい。
「このあたりはもうすぐガーベラやフリージアが咲く予定らしいよ」
「へぇ、それもきれいだろうなぁ」
「うん、きっと」
ゆっくりとふたりで話す時間は心地よかった。弓道場にいるときの愁はいつも凛々しくて美しいけれど、穏やかな日差しの中で、花や緑に囲まれている愁はどこかやわらかく、瑞々しくてそれもまたきれいだと思う。
「絵本の中の世界みたいだね」
「そう? そこまで大したものじゃないと思うけれど……」
謙遜ではなく、素で言っていそうなところがおもしろい。(なにせ愁はこの家を普通だと思っている)そして愁も含めた意味だということは伝わっていなさそうだが、わざわざ言うのも照れくさいので黙っておいた。
絵本の中の世界、といえば。ぐるりと温室内を一周して、ピアノのそばに来る。
以前お屋敷の中で見た大きな黒いグランドピアノとは異なり、小さくて縦長のものだった。色は白く、今は蓋が閉じられている。古いピアノではあるようだが、よく手入れされ、今も大切にされていることがうかがえた。
「気になる?」
「え?」
「ピアノ。沙絵から何か聞いたのかい?」
「……愁くんにはなんでもお見通しだ」
「それは買い被りすぎかな」
少しくすぐったそうにほほ笑むと、愁が遼平の隣に並んで肩を寄せる。その近さに抱きしめたくなったが、周りが屋根までガラス張りだったことを思い出し、ぐっとこらえた。敷地内でお屋敷の裏といえど、あまり大胆なことをするのはどうかと思ったからだ。外から、丸見えなわけだし。
「大丈夫。この時間は、誰も来ないから」
途端、愁がそうささやくものだから、内心どきっとしてしまった。
「やっぱお見通しじゃん!」
「ふふ……」
実に楽しそうに笑われたので、恥ずかしいやらなんやらをごまかすために結局ぎゅっとその身体を抱きしめる。愁も背中に手を回してくれたのが嬉しくてぐりぐりと額を肩にこすりつけると、また笑われてしまった。
なのにまったく嫌な気持ちにならない。むしろ、自分の言動で笑ってくれる幸福に感謝したくなる。
「愁くんも、このピアノを弾いてたって聞いたよ」
まだ愁とくっついていたい気持ちはあったのだが、これ以上は本当に離れがたくなってしまいそうなので我慢する。そっと身体を離して、ピアノにふれた。
つるりとした蓋の感触や、ひんやりとした温度が気持ちいい。愁も同じように蓋を撫で、合点がいったのか「ああ……」と声を洩らす。
「弓を始める前まで、少しだけね」
「――まだ弾けたりする?」
「どうかな。もう何年もさわっていないから、きっと指が動かないよ」
困ったように苦笑するが、無理だとはっきり拒否するそぶりではなかった。なので思い切って言ってみる。
「愁くんのピアノ、聴いてみたいなー……って頼むのは、ずるい?」
愁は何度かまばたきをして遼平を見つめたあと、ふっと表情を崩した。
「それも、沙絵から?」
「んー、どっちかっていうと俺のわがままかな。ここで愁くんが弾いてるところを見たいっていうか」
「そんなに楽しんでもらえるものでもないと思うけれど……簡単な曲しか覚えていないし」
「俺なんて、ほんとちっちゃいころに鍵盤ハーモニカでやったチューリップの歌くらいしか覚えてないって」
それかきらきら星くらい? チャルメラとか……あれは曲とは言えなさそう。どちらにしろ、愁が覚えているという曲とはまったく違うだろう。
「ね? お願い」
顔を覗き込んで頼むと、愁は観念したように苦笑しながら「じゃあ……」とつぶやいた。
「本当に簡単な曲しか弾けないけれど」
「やった! 愁くんが弾いてくれるならなんだって嬉しいから大丈夫!」
「あんまり期待しないで」
そう言って、愁がピアノの蓋を開く。鍵盤にかけられていた布をピアノの上に置いてから椅子に腰かけると、ふと遼平を見上げた。
「そんなに見られると、緊張するな……」
「え、ごめん。俺のことはそのへんの草か何かだと思って」
「君のことをそんなふうには思えないよ」
それってどういう意味? と訊く前に、愁はピアノに向き直ると鍵盤を指でそっと撫でた。両手を広げていくつかのキーを押さえると、ためらいがちに最初の音を叩く。それから順番に音を確かめてから、丁寧に曲を奏で始めた。
本人の言うとおり、それはたしかにゆったりとしたシンプルな曲だった。しかし美しく、どこかで聞いたことがある気もする。愁の長い指が鍵盤を滑り、そのやさしい旋律はきらきらと輝きながら空気に溶け込んでいくように感じられた。
ピアノをやっていたのは弓を始める前、というと、小学校の低学年くらいだろうか。
小さな愁が背筋を伸ばして椅子に座り、白い鍵盤の上に指を滑らせていた姿を思い浮かべると、たまらなく愛おしかった。今もこうして弾けるくらい、当時の愁が一生懸命に練習したのであろうことが。
演奏が終わると、遼平は自然と拍手をしていた。愁は恥ずかしそうにはにかんだあと、「あまりうまく弾けなくてごめんね」と謙遜する。
「ううん、そんなことない! 超かっこよかった!」
「――ありがとう」
今度は安心したように笑って、肩の力を抜いたのがわかった。緊張する、と言ったのも本心だったらしい。まさか自分が、あの藤原愁を緊張させようことがあるなんて。
「沙絵ちゃんには弾いてあげないの?」
椅子から立ち上がり、鍵盤に布をかけ直す愁に尋ねてみる。遼平の知る限り、愁はやさしいお兄ちゃんだ。妹の頼みを無下にするところはほとんど見ない。
たとえ一曲だけでも、今のように弾けるのであれば披露するには充分ではないかと感じたからだ。かたくなに断る理由があるのだろうかと。
愁は困ったような表情で「うん……」とつぶやくと、考えるような間を空けてから続けた。
「日ごろから沙絵が練習している姿を見ていると、少しかじっただけの身で気軽に弾くのは失礼だと思うから」
そんなことはないだろうし、沙絵だってただ純粋に喜んでくれると思う。けれどきっと、愁の中ではそういうことではないのだ。
愁の、生真面目なほどの誠実さが好きだった。大げさではなく、そこに救われたと思っているから。
気づけば、再び愁の身体を抱き寄せていた。
「遼平くん?」
「愁くんのそういうとこが、好きだなって思って……」
そういうとこ、の具体性を伝えるすべを持っていないのがもどかしい。
愁は不思議そうに首をかしげたが、そっとまたこちらの背中に手を回してくれた。そしてなだめるように、ゆっくり撫でてくれる。
「愁くん……キスしたい」
「え?」
「だめ?」
遼平がじっと見つめると、愁は逡巡するように視線を外した。しばし視線をさまよわせたあと、ゆるやかに瞳を伏せる。
「……いいよ」
ささやくように伝えられた同意の言葉とともに、遼平はゆっくりと顔を近づけた。そして、かすかに震えるくちびるをやさしく奪う。ふれ合った部分からじんわりと熱が伝わっていく。
くちびるが離れたあとは鼻先同士をくっつけて、ふたりで少し笑った。
*
「さっきの、なんて曲? 聞いたことある気がして」
「バッハのメヌエットだよ。本当の作曲者は別らしいけど」
どこで聞いたかまでは思い出せなかったが、音楽室に飾られている、白いもこもこした髪型の肖像画が思い浮かんだ。
陽が傾き始めていた。温室の中は静けさに包まれ、金色の光が満ちている。入口とは反対側にある小さなベンチにふたりで腰かけて、ゆるく手をつなぎながらまたぽつぽつと話をする。
「あのピアノ、人にあげちゃうんだっけ」
「うん。母の知り合いに」
愁にあの弓道場が与えられたように、沙絵にはあの大きなピアノが与えられたのかもしれない。古いピアノはこの家での役目を終えて、新たな場所へ行く。
「ちょっとさみしい?」
どうだろう、と言いつつも愁の横顔に迷いはなかった。
「人に譲る話が出るまで、しまわれていたことも知らなかったんだ。新しいピアノが来たときに、処分されたものだと思っていたから……まさか、また弾く機会があるとはね」
口調は淡々としていたが、穏やかな笑みが浮かんでいて、遼平も自然と笑顔になった。絡め合った指をきゅっと握り、愁の肩に自分の肩をくっつけてから少し甘えるようにしてもたれかかる。
「聞かせてくれてありがとう」
「お礼を言われるようなことじゃないよ。俺も、最後に遼平くんに聞いてもらえてよかった。ありがとう」
最後、という言葉の、すがしい決別をまぶしく思う。たぶん、これからも愁はピアノを弾くことはないだろう。それはきっと、さみしいことじゃない。
新しい一面を知ることができたのは、どきどきした。色とりどりの花の中でピアノを弾く愁は、本当におとぎ話の王子様のようだった。
だけど、小さなころから愁は愁だったというのを知れたのが、いちばん嬉しかった。遼平と出会う前、弓や湊と出会う前からも。目の前のことに全力を尽くし、ひとつひとつを決しておろそかにしない。その積み重ねが、こうして今の愁を形作っていることが。
「今日は本当に楽しかった。また来てもいい?」
「もちろんだよ」
どちらかともなく顔を寄せて、そっとくちびるを重ねる。誰かに見られるかもなんて心配より、目の前の愁とふれ合える幸せに酔いしれる。
春が訪れるように、ふたりの関係も新たな季節を迎えるのかもしれない。次に来るときはピアノはないだろうけれど、また新しい花が咲く。
記憶にとどめた旋律を、めぐる季節の草花が彩っていくことを想像しながら、もう一度キスをした。
fin.

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