湊とキスをした。人生のうちに、そんな出来事が起こるだなんてこれっぽっちも考えたことがなかった。
手を繋いで外を駆け回ったり、試合に勝った喜びで抱き合うくらいはこれまでもしたことはあるし、幼なじみの親友なら特筆することではないだろうけれど、キスは違う。ここは日本なので、親友同士ではキスをしないのが一般的だ。
つまり、湊との関係はただの幼なじみで親友、というものではなくなった。
ほんの一瞬。清らかで美しい朝の光の中で、湊のやわらかなくちびるが自分のものに重なった、あの瞬間。
「好きだよ、静弥」
愛おしさを音にしたような、声。こんなに幸せでいいのだろうかと、身体の奥から歓びが満ちてあふれ出しそうだった。いまだって、思い出すだけで舌が甘い水に浸されたように幸福になる。
しかし、そうしてささやかに反芻するうちにひと月がたってしまっていた。とにかくこの一ヶ月は、合宿に県大会予選に向けての選抜に練習にと慌ただしく、充実度で言えばこの上ない密度だったが、あれ以来キスをしていないのだ。
機会が一切なかったわけじゃない。ふたりきりになることもたくさんあったし、実を言えばもう少しでしそうだったタイミングもあった。けれどそういうときに限って邪魔が入るというか、少しでも物音が聞こえると身体が竦み上がって顔を逸らしてしまうのだった。
「っ、ごめん」
「いや、おれのほうこそ……」
なんていう気まずい会話を何度かした。湊がそうして、キスをしたいと思ってくれているのは嬉しい。言葉にならないくらい。けれど嬉しすぎて、どうにかなってしまうんじゃないかとも思うから、すこしこわい。
むしろ、あれが最初で最後だというほうがよかったのではないかとすら思う。だってあんな一瞬だけで、湊から恋情を向けたキスをされたというだけで、ひと月がたったいまですら飽きることなく幸福だ。
考えもしなかったことが起こって、さらにはくり返そうとしている。二回、三回と、そのうち数えるほうが煩わしくなるくらい、とか。ただくちびる同士をくっつけるだけでなく、もっと深く、貪るように舌を絡めたり、とか。たったあれだけで、そんなあさましい空想に身をやつしてしまう自分が嫌だった。
「あのさ静弥」
「何?」
「いま、キリがいいと思うんだけど」
「そうだね。ついでにライティングとか、他に不安なところがあったらそれも見るけど」
「え? 助かる……じゃなくて!」
ばたりと勢いよく問題集を閉じる。あっというまにテスト期間で、しばらく部活は休みで、めずらしく湊のほうから「テスト範囲でわからないところがある」と言って帰り道に勉強会を提案してきたので、湊の家でふたりきり、なのだけれども。
「キス、したい」
ごまかさず正面突破してくるのが湊らしいなと思う。この、できそうでできなかった期間、明確に口にしないのがよくなかったと判断したのかもしれない。
身を乗り出された分、反射的に身を引いてしまって、しまったと思ったときには湊が眉間にしわを寄せていた。
「静弥が嫌なら、いいよ」
とんでもない、と言おうとしたのに、喉がふさがったように声が出なかった。かぶりを振って否定する。心臓が、耳の奥に移動してしまったように鼓動の音が身体中で響いている。振った頭が痛い。
「して」
呼吸困難に喘ぐような声しか出せなかった。目をつむる。間を開けず、湊の手が両肩を掴んだ。そこから溶けてしまうんじゃないかというほど、熱かった。
くちびる同士が重なる。ただそれだけのことなのに、やっぱりこんなに幸せでいいのだろうかと思う。身体中に歓喜の渦が広がって、何も考えられなくなってしまう。
すこし離れてから、また角度を変えて口づけられた。いまは座っているからなんとかなっているけれど、前みたいに立ったままならやはり座り込んでしまっただろう。
好きだ。湊より好きになるものなんて、この先あるのだろうか。あったとしても、そんなものはほしくない。
湊だけが、何よりも好きだ。
二、三度くっつけあってから目を開けた。すぐ近くにある湊の熱っぽい瞳に見惚れてしまう。
「そんな顔、するなよ」
「あ、えっ……僕、どんな顔してる……?」
「わかんないけど――どうにか、したくなる顔……」
そんなこと言われたら、どうにかしてほしくなるじゃないか。
また、「して」と言いかけたがそれより早く抱き寄せられて声にできなかった。
「はあ、緊張した……」
心底安堵したような声に、生まれた劣情を押し殺して「うん」と答える。手を回した背中が熱い。そして鼓動が早いのも、わかる。
「静弥、好きだよ」
「うん……」
嬉しいことも、幸福なことも、次々に塗り替えられていく。
「僕も、好きだ……」
「知ってるよ」
顔は見えなくても、苦笑したのがわかった。それもまた嬉しい。知っていて、受け入れてくれる。
まるで水風船だ。湊から注がれる愛情にいつかはち切れて、みにくい欲望を晒してしまうのがこわい。
だけど同じくらい、そんなことになるまで愛されてみたいと、願ってしまう自分もいるのだった。
fin.

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