突然だが亮さんとけんかをしている。もう三日くらいはたっただろうか。たぶんここ最近では、いちばん長引いている。
きっかけはそんなに大したことじゃない。というかここしばらく、けんかと言えるような大した諍いは起こっていなかった。
「倉持はくつ下とかシャツが裏返ったまま洗濯しても気持ち悪くないの?」
「いや……べつに」
「だと思った」
はあ、と大げさにため息をつかれる。事の発端はこの会話だった。
「おかしいよ。脱いだあとに整えるだけじゃん」
「そうっすけど……そこまで言わなくてもいいんじゃないっすか?」
「なんで? おかしいだろ、しわになるし」
「俺だって気づいたときはちゃんと戻してますよ」
「うそだあ。いっつもくつ下丸まってんじゃん。あと干し方も雑だし」
ほんと変なとこだけA型発揮するくせにさあ、そういうとこだらしないよね、とかぶつぶつ文句をいわれたのが、なぜかとてもカチンときてしまった。
どうしてもう少し冷静でいられなかったのだろうかと、悔いたところであとの祭りだ。
「俺の服なんだから、亮さんには関係ねーじゃん」
なんてつい声を荒らげてしまって、亮さんもそれにはかなりムカついたみたいな顔をして「じゃあもう知らない」っていう、売り言葉に買い言葉。
けんかをすると亮さんは徹底的に自分の部屋から出てこなくなる。
いっしょに住み始めてまだ間もないころは一度だけ、出て行ったかと思ったら春市から「兄貴預かってます」なんて連絡がきたこともあった。あれはあれで大変だったが。
あとはきっかけがどちらであれ、だいたい俺のほうから先に謝る。それでも亮さん自身が、自分が悪いと思っていたときはうやむやにせずきちんと「俺のほうが悪かった、ごめん」と筋を通そうとしてくれる。だからこれまで不満を抱いたことはなかった。
けれども今回は、どうしても俺から折れることはしたくないと意地を張っているうちに、三日だ。長い。そろそろ意地も限界だ。
亮さんは、育ちがいい。はしの持ち方もきれいだし、脱いだ靴もきちんとそろえるし、昔から誰に言われることなく自分の身の回りはきれいにしている。
実際、狭い集合住宅で育った俺からしたら実家は豪邸に見えた。そっくりな顔をしたお母さんも非常に上品で、息子たちがかわいくて仕方ないというのがよく伝わってきた。
べつに自分の家庭環境に劣等感を持っているわけでもない。お袋もじいちゃんも、親としてじゅうぶんな愛情をくれた。仕事の合間をぬって俺を育ててくれたことを感謝しているし、かなり尊敬もしている。
どんなに忙しかったとしても、ありとあらゆる体育系イベントにおける徒競走で俺が一等を取ると、必ず好物を作ってくれた。
だから多少しわの寄った洗濯物だろうが気にせず着ていたし、今もそういう感覚なんだろう。
今回ばかりはこれまでに意識もしていなかった、深くてフタをかぶっているところにふれられてしまった。自分を通して、親のしつけがなっていないといわれたように感じてしまったのだ。
速度優先でとにかく洗濯機と乾燥機につっこんで、着てしまえばしわなんて関係ない、という方針とは違う。服の素材別に何度か洗濯機を回し、晴天のもとゆったり干され、丁寧にアイロンをかけられる、方針。どちらで育てられたかという違いが生じたって、不思議ではない。
だからといってこれは自分が悪いとか亮さんが悪いとかそういう問題でもない。生活環境が異なる者同士がいっしょに住んでいるのだから、仕方のないことだ。
寮生活のときは、お互い同じ部屋になったことはなかったわけだし。
まあ、けんかが起こった原因なんていまはもうぶっちゃけどうでもいい。
とにかく限界で、つらいのだ。
だって本当は、亮さんとけんかなんてしたくない。ただいまといってきますのキスがないのもとてもさみしい。三日も亮さんにふれていないというだけで、こんなにもつらいだなんて。自分の中のなにかが、枯渇して頭がおかしくなりそうだ。
鬱々とした気持ちのまま帰宅すると、三日ぶりにキッチンから亮さんの気配がした。
俺の部屋はキッチンとリビングを通らないといけない場所にあるが、亮さんの部屋は玄関に近い。だから入ろうとしなければ一切キッチンやリビングに入らずまあまあ生活ができる。
というかこの三日、家の中に人の気配はあるのに誰も迎えてくれないリビングに入ることがかなり苦痛だった。
しかし喜び勇んでキッチンに足を踏み入れたところで、まるで俺の存在などないかのように振る舞われてしまってはさらにダメージを負うことになる。
深呼吸をする。なにが起こってもいいようにと気持ちを落ちつかせ、キッチンへと入った。
「おかえり」
普段からするとかなりぶっきらぼうでこちらを一瞥もされなかったが、たしかに声をかけられた。期待をしていなかったほうの展開にビビってなかなか返事ができず「た、ただいま帰りました……」などとばかみたいにかしこまってしまう。
音や匂いからわかっていたが、亮さんは料理をしていた。たしかにお互いの取り決めでは先に家に帰ったほうが夕飯を作るという項目がある。だがけんかをしている間は反故にされていた。
ぽかんと立ち尽くす俺のほうを決して見ることはなく、亮さんはひたすら無愛想に「着替えてきたら」とだけ言った。
反射的に「あ、はい」と生返事をしてとりあえず自室へ入る。
なんだこれは。なにが起こっているんだ。いままでになかった展開に頭の中がかるく混乱する。
いやしかし、あれが二人分だとは限らない。
こうしてすこし期待させた上で、は? おまえの分なわけないじゃん、なんて突き落とすつもりだったりして。とまで考えたが、あまりにも鬼すぎていやそれはねーだろとかぶりを振る。
亮さんは、そういうことはしない。
考えをめぐらせて、様子をうかがって、部屋から出ていいものなのかさんざん迷った。だが今日は空腹のまま帰ってきてしまった。バターの芳しい香りが、正常な判断力を奪ってしまう。
悩んでいても仕方がない。意を決して戻ると、そこにはダイニングテーブルについた亮さんの姿があった。あいかわらずこちらを見ないよう俯いているけれど。
そしてテーブルの上には、オムライスが。
「あの、――」
「ごめん」
予想外の展開は続いているようで、突然の謝罪にただ瞠目することしかできなかった。
「どうせそのうち倉持から謝ってくるだろって思ってた。でもそう考えてる自分が死ぬほどいやになった。だから反省の意味もこめて、好物を作って倉持の機嫌を取ろうと思いました」
なぜか敬語になった。
「なので、ごめんなさい」
ようやくこちらを見た亮さんの表情は、あまりにもいっぱいいっぱいだった。こっちのほうがせつなくなってしまう。
できることならそのまま抱きしめてしまいたかったけれど、ぐっとこらえて席につく。きちんと手を合わせ、「いただきます」を告げてからオムライスに向かった。
かなり率直に言わせてもらうと、亮さんは料理が上手くない。
下手というわけではないけれど、たぶん俺のほうが上手い。このオムライスも、一生懸命チキンライスを包もうとした努力は見えるが上手くいかなかったのだろう、ところどころたまごがやぶけていた。
普段であれば、亮さんが作るのは薄焼きたまごを上に乗せただけのかんたんなオムライスだ。チキンライスを包むオムライスは俺しか作らない。食べたらどっちもいっしょじゃん、というのが亮さんの弁だった。
だけど今日は、俺の好きなほうのオムライスを作ってくれている。失敗するといやがって食べさせてくれないこともあるし、正直チキンライスの味付けもまばらだ。あともうすこしわがままを言うならケチャップでハートとか書いてほしかったけど。
でも亮さんが俺のために、俺と仲直りするために作ってくれたそれはもう、しあわせの味しかしなかった。
オムライスにカレー、ハンバーグ。子供っぽいと笑われたっていい。食べるといつだって、特別な日のしあわせな記憶がよみがえる。
きっとこれから先、オムライスを食べるとこの日のことを思い出すだろう。なんて贅沢で、幸福な記憶。
「ごちそうさまでした」
「……ん、」
俺がオムライスを平らげているあいだ、亮さんはただじっとこちらを見つめていた。
たぶん俺の顔は途中からかなりゆるんでいたとおもうし、むしろなんか無性に泣けてきたし、自分がいまどんな表情をしているのかもよくわからない。
もう、とにかく、どうにも我慢できなくて、気づいたときには亮さんをきつく抱きしめていた。三日ぶりの亮さんの体温と匂いを全身に感じる。足りなかった、枯渇していたものが、ようやくすみずみまで満たされる。
「俺も、すみませんでした」
ほっぺたをすりあわせて、耳もとへささやいた。すこしくすぐったそうに亮さんが身をよじる。
そのまま耳のそとがわを舌でなぞって、じゃれるみたいに何度もやわく甘噛みする。じわじわと熱を持って赤くなる様子は、何度見たって飽きやしない。
椅子から半分立ち上がるような姿勢になっている亮さんをきちんと立ち上がらせて、反対に俺が椅子に座りその身体を膝の上に座らせた。
「倉持、泣きそうな顔してる」
「亮さんこそ」
「うん」
お互い、ばつが悪いままに笑ってそっと口づけあう。何度かふれあわせたあとは、貪るように舌を絡めた。
足りない足りない、と本能に急き立てられている俺をなだめるように、亮さんがこちらの頭を抱きこむ。
「倉持は、いつも俺を許してくれるよね」
俺のうしろ頭をゆるゆるとなでながら亮さんがちいさな声でささやく。
「でもそれを当たり前だって思ってる自分に気づいて、すごくいやになった。当たり前なわけがないのに」
「いいのに、べつに」
「よくないよ」
俺の頭から手を離し、目と目を合わせられた。
「俺が、俺を許せない」
至極真面目な顔をして、そんなことを言う。
亮さんは根が真面目だ。ふざけることがないわけじゃない。冗談だって通じる。けれど誰よりも自分に厳しくて、いつだって清廉潔白で、悪意にはそれ以上の悪意で応えるしたたかさもある。
そして大切な人からの好意を、裏切ることができない。自分が我慢すれば済むと判断したことは、なんでもないふりをして我慢してしまう。
俺はべつに、寛大でもなんでもない。
どちらかといえばせっかちだし、大人になったいまはさすがにしないけれど、すぐに手が出るタイプだった。
けれど亮さんだけは、どんなことだって許すと決めている。
ゆえに今回のけんかがつらくて仕方なかった。自分がどうして声を荒げてしまったのかを、ちゃんと説明するべきだった。
亮さんならわかってくれたはずなのに、つまらない意地のために三日も。
「だから俺も、もっと倉持を許してあげたい」
「そんなの、いいんすよ。だって今回は亮さんのが正しいし」
もう一度、すみませんでしたと謝る。
亮さん自身が、俺といることを選んだ自分を許してくれたことが、俺は嬉しいから。
いままで生きてきた中で、いちばん嬉しい。我慢せずに、それでも好きだと言ってくれたことを忘れられない。
俺の意地なんて、あれにくらべたらちっぽけでくだらない。
「オムライス、今まで食ってきたやつの中で、いちばんしあわせな味がしました」
「なんだそれ」
だって他に表現のしようがない。亮さんは楽しそうにくすくす笑って、いつもよりずっとあまい、とろけるような声で「キスして」とねだった。
亮さんにとっての自分が、どれだけ特別なのか。こうして目の当たりにするたびに、身体中がしあわせといとおしさで満ちてしまう。
収まりきらないほどの総量なのに、出口はどこにもないから苦しくなる。こんなにいとおしい苦しみは、他にはない。亮さんにしかできない。
あのとき亮さんは、俺にはわからないくらいたくさん迷って、悩んで、ためらって、それでも「俺でいいの?」と聞いてくれた。
自分がとなりに居続けることを、二遊間コンビも解消して、先に卒業していく小湊亮介が、倉持洋一の特別であり続けることを許せず、一度は拒んだけれどそれでも聞いてくれた。
だから俺はなんどでも答える。
俺が、亮さんがいいのだと。俺が、亮さんの特別でありたいのだと。
「亮さん、好きです」
「ん、」
「好き」
「もっと言って」
こんなに俺を想ってくれている人が、好きでいてくれる人が、亮さんでよかった。
こんなにも好きでたまらない人が、ほかの誰でもない亮さんでよかった。
好きな人に、こんなにも好きになってもらえるなんて。
なんてうつくしい奇跡なのだろう。また泣きそうになりながら、改めて「好きです」と伝える。そうすると亮さんは、ほんとうにしあわせそうにやわらかく、「俺もだよ」と笑ってくれるから。
やっぱり俺は、一生この人には敵わない。この先の未来もずっと、亮さんが好きです。
fin.

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