校舎を出るとき、降るかもなとは思っていた。しかしたかが徒歩十五分。走ればそれ以下。二の足を踏んでいるうちに降ってきてしまったら、そちらのほうが困るだろう。
だからなるべく足早に寮への道を歩いていたのに、結局半分も進まないうちにぽつりぽつりとアスファルトはまだらな水玉模様になり、あっというまに雨粒で塗り潰されてしまった。
カバンの中には提出用の書類がいくつか入っている。普段ならそこまで気にしないが、今日ばかりはこれが濡れてしまうとのちのち面倒くさそうなのでカバンを庇いながら駆ける。
こういうときに限って、という言葉はまさに今このときのためにあるのだろう。
学校から寮までは手ごろな距離で、これまでたくさんの恩恵を受けてきた。
だが手ごろすぎてこういうときに雨宿りできるような建物がほとんどない。ただでさえ引退したことで現役時より体力が落ちているというのに、荷物を庇っての全力疾走は全身にかなり堪えた。
寮の敷地内に駆け込み、とりあえず雨をしのげる屋根の下で両手をひざについて呼吸を整える。
手前のほうで誰かが部屋から出てきた、と思ったら「亮さん!」と名前を呼ばれたので顔を上げた。声の主が倉持だったから。
すでに練習着に着替えていたが、同じように雨に降られたからなのか、いつも気合いを入れて立ち上げられている前髪がめずらしいことに力なくそのひたいを覆っている。
「だれ?」
「ぜってぇ言うと思った」
わざとでしょ、と笑った顔がいつもよりあどけなく見える。はじめて見たわけじゃない。けど練習着姿では、はじめてだ。前髪ひとつでずいぶんと印象が変わるものだなとまじまじ見てしまう。
「うわ、けっこう降られましたね」
「うん、まあ――」
はあーっと大きく息を吐いた。だいぶ疲れたが、おかげでカバンは無事のようだ。
「久々に全力ダッシュした。やっぱ引退すると体力落ちるな、きっつい」
「タオル貸しますよ、こっち来て」
「え、いいよ。部屋にあるし」
「俺の部屋のほうが近いから、はやく」
なんだよ、倉持のわりに強引だな。と思いはすれど髪の毛にしたたっているのが雨なのか汗なのかわからない感覚や、張り付いたシャツは気持ち悪い。それに秋雨はそれなりに冷たいので素直に従うことにした。
晴れの日はまだ夏の名残りを感じさせるが、季節はしっかりと巡っているようだ。
セーターを着ていなくてよかった。乾きにくいし、濡れたセーターを脱ぐときのあのまとわりつく感じが好きじゃない。
五号室は、いつもすこし散らかっている。倉持は自分はちゃんと片付けているのに沢村がすぐに散らかすのだと言う。真実は知らないけど。
水がはねるのも気にせず走ってきたから、制服のスラックスも濡れている。
「上がってください」
「いいよ濡れてるから」
頑なに動こうとしないので、倉持はそのままバスタオルを渡してくれた。
「悪いな、ちゃんと洗濯して返すから」
「べつにいいっすよ。俺もさっき降られたから髪こんなんだし」
「かわいいじゃん」
「……亮さんに見られるのは想定外」
「なんで? いいじゃん、かわいいし」
「だからかわいくねえってば」
わかりやすくすねてしまうところが一層かわいいというか、からかいがいがあるというか。余計にからかいたくなってしまうのだけれども。
「ちょっ……! ストップ! なんで脱いでるんすか!」
軽いやりとりをしながら髪の毛、顔周り、首筋と濡れた箇所をぬぐっていき、邪魔なネクタイをほどいてシャツのボタンに手をかけたあたりで突然ストップがかかった。
「……襟元も濡れてて気持ち悪いから」
「いやそうでしょうけど! そんな急に脱がないでくださいよ!」
「べつにいまさら、着替えも風呂も見てるだろ」
「でも急には、びっくりするから――」
歯切れ悪く返す倉持に訝しむ。びっくりするものか? そりゃあ突然全裸になられたら驚くし常識を疑うけれど、濡れたシャツのボタンを外すぐらいで目くじらを立てられるなんてどうにも腑に落ちない。
だからといって中断するのも癪なので気にせずボタンを外していったら、倉持は耐えられないといったように背を向け部屋の奥へ行ってしまった。
同性に対してどうなんだ、その反応は。ずいぶん前に同級生に冗談半分でいわれた『亮介が脱ぐと一瞬だけドキッとする』という軽口を思い出してしまいなんとも腹立たしい気分になってくる。容姿も体格も好き好んで選んだわけじゃないし、私生活にまで不当な扱いを受ける謂れはない。
「あのさあ、下に着てるし男同士なんだからべつにいいだろ」
「――恋人同士なんだから、意識して当然じゃないっすか」
「こ、――」
言外に、なんでわからないのかなあと咎められているような気がした。
憤りが一気に萎えてしまい、返答に窮する。当然、なのだろうか。今の今まで一切意識をしていなかった自分があまりにも薄情だと、責められているような。
だけどここで謝るのも釈然としない。不自然に途切れさせてしまった会話が気まずい。
脱ぎかけのシャツもどんどん冷たくなる。仕方ないのでとりあえず脱ぎ切る。下に着ていたTシャツをどうするかと思案していたところで同じく気まずそうな顔をしながら戻ってきた倉持がビニール袋を差し出した。
「使ってください」
「……うん」
「あと、これ」
もうひとつ、黒いスウェットを差し出された。見覚えのある、倉持がよく着ているやつだ。
「昨日洗濯したばっかなんで」
意図がわからずじっとその顔を見つめたが倉持はますますばつの悪そうな表情になる。
「だから、そんな格好を他のやつに見られたくないって、意味なんスけど」
恋人として。と言ってまた背を向けられてしまった。
この、なんとも言えない機微はまだいまいち理解できない。
だけどだれとも違う感情を向けられていることだけは理解したから、うろたえた。
からかったり、侮ったりじゃない。いつもより強引に部屋まで連れてきたのも、目の前で急にシャツを脱いだことに戸惑ったのも。
ネクタイ、シャツとビニール袋へ雑に突っ込んでTシャツも脱いだ。いまさら倉持の部屋で着替えている事に羞恥心を抱いたりしないはずなのに、手早く濡れたところを拭うとスウェットを頭からかぶる。
とにかく一刻でもはやくこの雰囲気から逃れたかった。Tシャツもビニール袋へ突っ込み、カバンにねじこむ。
スウェットはもともとゆったりとしたサイズなのだろうとおもうが、腕を伸ばしても袖口から指先しか出なかったからこんなに体格に差があったっけとおもった。倉持も部内では小柄に分類されているはずだが。
「着たけど」
「はい」
「こっち向けよ」
「……ちょっといま、いろいろ葛藤してるんで」
「いや意味わかんないし」
葛藤の正体がわからない。倉持のことがわからない。わかっていたはずなのに。
いままで、いろんなところでわかりあえて、あんなに気持ちよくいっしょに野球をしていたのに。わからないと思ってしまったらいろんなところが、わからなくなってしまう。
わかると感じるときは、なにも言わなくたってすんなりとわかるのに、このごろはわからないことが増えてしまった。
手持ち無沙汰にもう一度タオルで髪の毛を拭く。袖口からふわりと整髪料と、柔軟剤とが混ざったような倉持のにおいが立ちのぼった。
倉持のにおいは、新緑の季節を想起させる。青々しい、生命力にあふれる新緑の、木漏れ日みたいなまぶしさと爽やかさ。
本人の性格とか来歴とかは二の次で。
「倉持のにおいって、なんか不思議」
「え?」
すん、と動物よろしくにおいをかいでいたところで弾かれたように倉持が振り返り、ぎゃっと悲鳴をもらした。
「ちょっ……! ストップストップ!」
勢いよく手首をひったくられ、反動で肩から羽織っていたタオルが落ちる。あまりの剣幕に呆然としてしまう。不思議、なんて言い方が悪かっただろうか。
「べつに変とかそういう意味じゃないよ」
「や、もうハズいんで勘弁してください……!」
目を逸らしながらされた白旗宣言は若干語尾がふるえていた。こういう表情を、自分がさせている。自分だから? 恋人だから? そもそも本当にいまの自分たちの関係は、恋人同士といっていいのだろうか。キスのひとつもしていないのに。
「痛いんだけど」
「あっ――すんません」
不安はいつだって、どこからでも滑りこんでくる。あまりにも不安定でいびつで、将来性の不確かさにほの暗い気持ちになる。
手を握られるくらい痛くもなんともない。なのにこころの中心がきりりと絞られるように苦しかった。
自分の気持ちのはずなのに、のぞきこむたび別のかたちに変わっていってしまう。
「――亮さん、」
場の空気が変わったことはわかった。さっきまではわからなかったものが。倉持がこれからなにをしようとしているかが。
一歩、距離を詰められて同じだけ後退ってしまう。一瞬だけ見えた、傷ついたような表情にこらえきれず背を向けた。失敗だ。今度は自分のことがわからなくなる。
「おまえ、練習あるだろ。もう戻る。いろいろありがと、じゃあ」
早口で礼を述べ、足元のカバンをひっつかんで部屋から出ようとしたが、一瞬早く倉持の手がそれを制する。「亮さん、」と重ねて呼ばれた名が、まっすぐ強い軌道でこちらに届く。
「好きです」
「っ、バカ」
複雑な模様の中から、たったひとつの正解だけを見つけ出して。
倉持の、聡いところが好きだ。大切に慈しむような目が、表情が。たまに大胆だと思ったら、繊細で傷つくところが。好きで、同時に嫌いになる。倉持を、じゃない。自分を嫌いになる。
手はゆっくりと解放されて、反動みたいになにも言わず急いで部屋を出た。後ろ手にドアを閉めたときに、タオルを落としたままにしてしまったことに気づいたが、もう一度このドアを開けようという気にはとてもなれなかった。
どんな顔をすればいいのか。夕食時だって顔を合わせるだろうし。
(俺だって、好きだよ)
ただそれだけの言葉が、声にならなかった。
先刻の全力疾走後のように激しく脈打つ心臓が、痛い。苦しい。スウェットはやっぱり倉持のにおいがする。
キスされそうだった。というか絶対、あのままだったらされていた。
望んでいたはずなのに、望んでいた自分が浅ましいような気がして嫌だった。してしまったらなにかが変わってしまうような、もう引き返せないような寄る辺ない未知数がこわかった。自分ともあろうものが。
日ごとに増していく、好きという感情の際限なさに、心許なくなる。
fin.

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