朝を見つけて・サンプル【海七】 - 3/3

一塁側のスタンドから大きな歓声が起きて、七緒を含め三塁側も拍手を送っていると、海斗は難しい顔で「わかんねえ」とこぼした。

「いやわかるっしょ、三振くらいは」
「三振のことじゃねえよ。てかお前……」

まで言うと声をひそめ、周りを窺いながら「こっち側がアウトになったのに、拍手して大丈夫なのかよ」なんて深刻そうに言うものだからつい吹き出してしまう。

「は? なんだよ」
「もー、大丈夫だって。応援団で来てるわけじゃないし、いいプレーが出たらどっちでも拍手していいの。皆中したときといっしょ」
「なんだそういうことか」

海斗にとっていちばんわかりやすいものに例えたので、すんなり理解してくれたようだった。歓声に拍手、ブラスバンドの演奏と、つくづく弓道の試合とは真逆の環境だが、高校生の部活であることには変わりない。

「三点目がなんで入ったのかわかんねえ。捕られただろ」
「あー犠牲フライね。バッターはアウトなんだけど、野手がボールを捕ってからランナーが走って、ボールが戻ってくるまでにホームインしたから点が入るやつ」
「ふーん……」
「ま、雰囲気で楽しめばいいんじゃない。わかんないことがあったらやさしーく教えたげるから」
「普通に教えろバカ」
「あ、いまの発言で授業料が値上がりしました」
「は?」
「授業料は甲子園カレーのトッピング全部乗せでーす」
「それお前が食いたいだけだろ!」

気づけば、お互いにいつもどおりだった。いつもの、昔から何度もくり返してきた軽口の叩き合い。七緒が普段どおりに振る舞えば、海斗もそれにつられてくれる。
この調子なら、今夜も、それ以降も、過ごしていけるだろう。そうすればおとといの、電車に乗る前のあの状態に戻るだけだ。

***

三階エリアのほうがいいのかなとぼんやり歩いていると、後ろからの「おにーさん! そこの……アローズの!」という声に足を止めて振り向いた。なんで急に贔屓チーム名が、と思うや否や三人組の女の子たちが七緒のもとに駆け寄ってくる。制服姿で、地元の学生だろうか。というよりこんな場所でなぜ呼び止められたのかと若干戸惑っていると、真ん中の子が「これ、落としませんでした?」と小さなカエルの根付がついた財布を差し出してきた。

「え?」とボディバッグを見ると、たしかにファスナーが半開きになっている。

「うわ、マジだ。ありがとうございます」

にこっと笑ってみせると、女の子たちも「よかったー」と明るく笑い合う。どうやら財布は観客席からコンコースへ向かう途中で落としていたらしく、親切なことにわざわざ追いかけてきてくれたようだ。

差し出された財布を受け取ると、女の子たちが顔を見合わせてまた笑った。

「この子が気づいて」
「アローズファンやもんね」
「そうなんです。アローズファンや! って思って目で追ってしもて……そしたらぽろっと」

じゃあこれで、では終わりそうにない雰囲気に、ただ純粋な親切ではないかもなという気がしてきたが「いやーほんと助かりました」と軽く返す。

「こんなきれいな子たちに気づいてもらえるなんて、アローズファンでよかったな」

どちらに転ぶか、と思って口にしてみたが、彼女らは嬉しそうに「きれいやって!」「そんなお世辞言うて」ときゃっきゃと好意的に笑った。やはり純粋な親切心だけではなさそうだ。

どうしようかなと思ったが、すぐわからなくなってきた。いつもの自分だったら、これまでどおりの自分だったら、こういうときは喜んで会話をするものじゃなかっただろうか?

***

高架下は頭上で走る車の音と、ざあざあと雨の音が響いてうるさい。

「そんな怒んないでよ。オレが財布落として、地元の女の子たちが拾ってくれたんだけど、そしたらその子らの連れがなんだお前〜みたいな? よくあるやつ」

これまでの二十年に満たない人生において、何度も経験してきたパターンだ。それでも、ああした直接的なものは久しぶりだったけれど。

「どうせその女子と愛想よく話してたんだろ」

そこからは見ていなかったとしても、まるで見てきたかのような口ぶりだった。七緒にとってよくあることは、海斗にとってもそうだから。

「――親切にしてもらったんだから、愛想よくすることの何が悪いのさ?」
「そうやって誰にでもいい顔してるから、いつもああなるんだろうが!」

吐き捨てるように口にした、海斗のほうが傷ついたような顔をする。そうされると、あ、笑わなきゃ、と強烈に思う。笑わなきゃ。傷ついてなんかないよって、かっちゃんの言うとおりですよって。ごめんねーって笑って言えば、終わるから。

***

「あんたは、ケンカするには優しすぎるんかもな」
「弱っちい?」
「強い弱いの話なんかしてへん。あんたは周りがよう見えて、目端が利いとる。人のためやったらケンカできるかもしらんけど、自分の主張を通すケンカはようせんのちゃうか?」

信号が変わり歩き出すと、傘からしたたり落ちた雨水が七緒の肩を濡らした。確信めいた口調に、肩だけでなく心臓がすこし冷たくなった気がした。

「……したことないわけじゃないよ」
「難儀やねえ」

***

海斗は黙ったまま聞いていたが、少し苦々しい、気まずそうに眉間に皺を寄せてから口を開いた。

「お前、あの元カノになんかされたのか」
「は、なんかって、何」

そんな返事は悪手に決まっている。図星だと言っているのも同然で、また改めてエラーの記録がされる。いや、ストライクコールかも。すでにツーストライク、追い込まれてんじゃん。そんな関係ない想像を巡らせていないと、もっとうろたえてしまいそうだった。口の中が乾いていく。

「なんかは……なんかだよ。そこまではわかんねー」
「……まあ、その……一応、男と女だし、それなりに、それなりのことは、あったけど」

ここまで言えば引いてくれるだろう、と思った。いつもの海斗なら、「そんなこと聞いてねーよ!」と照れ隠しに声を荒らげたりして、何照れちゃってんの? 結局そういうことに興味あるんでしょ~? とか、自分がおちょくって、うやむやになって。

「いやなことされたのか?」

なのに、海斗が寄越してくる表情は、声色は、ひたすら心配だけだった。

***

「だってこんなの、ただのわがままじゃん」

なのに、自分だけは海斗を独占したい。誰にも渡したくない。海斗が変わって、やわらかくなって、いろんな人に受け入れられることは嬉しいはずなのに、どこかさみしい。

いま弓を愛しているように、愚直に誠実に、誰かを愛するようになるかもしれない。自分じゃない、誰かを。それをどうして、他でもない自分が、心から喜んでやれないのか。祝福してやれないのか。そんなことはわがままで、許されないことだ。

*七緒がいっぱい苦しみます。ずっと隠していたものを、海斗に見つけてもらうまでのお話。

送信中です

×

※コメントは最大1000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!