向う側にある、見えないものが知りたかった。そこにあるはずなのに見えないもの。なんだかなぞなぞみたいだ。
ふれ合う肌はお互いにしっとり汗ばんでいて、もう冬なのにここはずっとあつい。頭で考えていることと、身体が感じていることが一致しない。まったく違う意思を持ってしまったように。
「あ、ぅ……」
含まされた親指で舌の表面をなでられる。噛みつくこともできなくて、ただ好きなようにさせるしかなかった。舌の付け根、うらっかわとまさぐられ、点検でもするように歯の生えぎわをなぞられたのにはさすがにくすぐったくて歯を立てそうだった。
「ふ、――ッ」
「お前、歯並びいいな」
今言うことだろうか? 反応に困ったが、特に返事は求められていなかったらしい。すぐに指がもう一本入ってきて、舌を側面から扱かれてそれどころじゃなくなった。一体どんな顔をして、そんなことを言っているのだろうか。
***
放課後、凛々しい表情で「じゃあ行ってくる」と戦場(という名のスーパー)へ赴く湊を教室で見送り、静弥はひとりで帰路についた。
「おかえり、ちょうどよかった。昨日言ったと思うけど、お母さん今から出かけるから」
帰宅すると、リビングでは母親が身支度をしていた。昨日した会話をぼんやり思い出し、洗面所で手を洗いながら「町内会の集まりだっけ?」と訊いた。
「そう。お父さんも今日研修会でしょう? そのまま迎えに行ってから帰るわね。ごはんは冷蔵庫に入ってるから、適当に食べておいて」
台所に入り、冷蔵庫を開けて中身を確認する。鶏肉のトマト煮、レンコンのはさみ揚げ、筑前煮、ほうれん草のおひたし。昨日の残りもあるが、明らかにひとり分以上の量だった。
「多くない?」
「明日も食べればいいでしょ。それか、今日作った分は先に取り分けて湊くんとこに持って行ってあげて」
「湊、今日は特売に行くからまとめて作るって言ってたよ」
「あらそう、本当にしっかりしてるわねえ。うちも料理くらいしてくれたらいいんだけど」
「それより時間、いいの?」
都合の悪い話題は逸らすに限る。母親はまだ何か言い足りなさそうな顔をしていたが、時計に目をやりあきらめたように「そうね」と言った。
「じゃあクマの散歩もお願いね。十一時くらいには帰ると思うから、戸締りはしっかりしてね」
「わかったよ、いってらっしゃい」
いってきます、と玄関を出た母親にクマが元気よく吠え、「散歩は静弥に行ってもらってね」という声が聞こえた。車のエンジン音が遠ざかっても、クマはそわそわエサのボウルを鳴らしたり、小屋とポーチを歩き回っているようだった。これは早めに連れて行かないと、このまま落ち着きなく催促され続けそうだ。
玄関の扉をすこし開ける。それに気づいたように、クマは小屋の前でぴたりとお利口にお座りした。そういうちゃっかりしているところは、いったい誰に似たんだか。
「もう、わかったって。着替えてくるから、ちょっと待ってて」
手早く制服から着替え、夕暮れの中いつもの散歩ルートを歩く。竹早家ではここ最近、運動したいからという理由で母親が当番を務めていたため、クマの散歩をするのは久しぶりだった。
テスト期間ではあるが、海斗の言っていたとおり、定期テストは普段の授業の復習にすぎないと思っていた。慌てて勉強するというような経験もない。
遼平だって弓の覚えはいいし、地頭はいいはずだ。集中すればそれなりに成果は出るだろうに。なんて本人に伝えても、昼間と同じように「それができたら苦労しないんだよね……」としょんぼりさせてしまうかもしれないが。
***
さてどうしたものか。スマホを眺めながら考えを巡らせていたら、車線を変えて近づいてきた車のことにも気づいていなかった。
「静弥? 何してんだこんなところで」
目の前に現れた青い車の、助手席の窓が開いただけでも驚いたのに、中から声をかけてきたのが滝川だったのでさらに面食らった。何してんだはこっちのセリフなんですけど。
「傘持ってないのか? 親は?」
見るからに軽装で、髪を濡らした静弥の姿に状況を察したらしい。
「今日、いなくて」
「そりゃ災難だ、送ろうか」
「え」
「ほら」
滝川は助手席側に乗り出してドアをすこし開け、シートに置いてあったレジ袋やかばんを後部座席に移動させた。
「遠慮すんな」
「べつに遠慮しているわけでは」
「こういうときはついてるなって流されとけばいいんだよ、な?」
助手席のシートをぽんぽん叩いて乗るように促される。どうにも引く気はないらしい。ついているのか、いないのか。手放しで喜べない状況に歯がゆくなる。よく知っている大人が車に乗って現れたのだから「助かりました、ありがとうございます」とでも言って乗り込めばいい。でも相手が滝川というだけで、静弥にはそれが難儀になる。
肩書だけ見れば弓道部の部長とコーチ。春先と比べればずいぶん関係は良好になったと思う。軽口をたたくのは信頼の裏返し(静弥自身がそれを口に出して認めなくとも)だし、滝川もわかっているのかあまり諫めない。弊害は、こういうとき素直に従えないことだ。
「シートが濡れますよ」
「いやいや、車より部長様の身体のほうが大事だろ」
静弥が渋ろうが、滝川も引き下がらない。
「見つけちまった以上、知らんぷりはできないよ。観念しろ」
もう一度「な?」と念を押される。押しつけがましいわけではないが、逆らい難い強さはあった。最終的に、わざと盛大にため息をついて「わかりましたよ」と静弥が折れるしかなかった。
「そんなあからさまに嫌そうな顔するなよ」
湊と同じことを言われた。
「傷つくなあ、そこまで嫌われると」
「心にもないことを……」
そういうことをさらっと口にするから、こっちだって素直な反応が取りづらいのに。
***
通された風呂場で、滝川はぶわっと豪快に蛇口をひねり湯船にお湯を溜め始めた。てきぱきと簡素なタンスからタオルとスウェットの上下を取り出す。
「濡れた服、そっちのカゴに入れといてくれ。濡れてないのはそのへんの棚の上を使ってくれていい。濡れたほうは乾かしとくから」
「どうやって?」
つい、そばにあった縦型の洗濯機を見た。
「ドライヤーでまあまあ乾くだろ、ずぶ濡れってわけでもないし。神社のほうなら乾燥機もあるんだけどな」
「そこまでしていただかなくても大丈夫です」
「わかったわかった、じゃあさっさと入れ。上がるときはお湯抜いておいていいから。三十秒待ったらカゴ回収するぞ」
「え、ちょっと」
制止する間もなく滝川は脱衣所から出て扉を閉めると、すぐに「いーち、にーい」とカウントダウンを始めてしまった。このコーチがこの手のことでやるといったら絶対にやることを知っているため、静弥はいそいそと服を脱ぐしかなかった。
湯加減や深さを確認して、そっと湯船に浸かる。膝を抱えるようにして腰を下ろしたら、自然にほうっと息が出た。
きっかり三十秒数え終えた滝川が脱衣所の扉を開け、「ちゃんと肩まで浸かれよー」と声をかけてきた。子どもじゃないんだから、という反感から返事はしなかったが、宣言通りカゴの回収だけしたようでまたすぐ扉が閉まる音がした。
なんだか変なことになってしまったな。言われたとおり肩まで浸かるほど溜まるのを待ってから、蛇口をひねってお湯を止める。
上下セットのスウェットを渡されていたが、考えてみれば上着のおかげで上はほとんど濡れていないのだから、脱いだものをそのまま着直した。下は履く前に足を合わせてみたところ、予想以上に丈が合わなくて気にくわなかったが、まさか下着姿で戻るわけにも行くまい。
すそを踏んづけないようにしながらドライヤーの音がする部屋に顔を出すと、気づいた滝川がそのスイッチを切った。
***
「怒ってません。僕だって健全な男子高校生なので、そういう話もできます」
「湊と?」
「――今、湊は関係ないでしょう」
膝立ちになり滝川の近くに寄る。すこし困ったような、駄々をこねる子どもをしょうがないなと見るような目をしていたのがますます悔しくなって、意地になってしまう。どうしても一本取ってやりたいというか、出し抜いてやりたい。そんな感情を生まれさせること自体が、子どもっぽいとしても。
襟を掴んで顔を引き寄せ、ぶつけるみたいにくちびるを滝川のそれとくっつけた。
「僕だって、キスくらい知ってるんですよ」
離れたとき目の前にあった、いかにも面食らったというような表情に、やってしまったという後悔よりも、やってやったという達成感が胸を占める。しかしその顔が、すぐに無感情になったのでぎくりとした。
「――そうか」
さすがに怒られるのかと身構えたら、反対に引き寄せられる。ひらけられた口に、本当に噛みつかれるかと思った。
「んっ……!」
ほっぺたを両手で包まれて顔は逸らせない。くちびるを食まれる。
「あっ」
口唇のあわいへ舌を差し込まれたのに驚いて声を上げたから、かんたんに口腔への侵入を許してしまった。吸われた上くちびるがじんじんする。邪魔だとでも言うように眼鏡を取り上げられ、ローテーブルへ置く音がした。耳朶のうらっかわ、付け根のあたりを指が這う。途端、栓でも抜かれてしまったように全身から力が抜けた。かたちや感触を楽しむようにさすられるたび、自分の身体がほどけてばらばらになっていくような感覚に陥る。
***
懐いたものを、恋愛感情とは断じてしまえなかった。己の気持ちも感情も、間違いなく静弥の中にあるはずなのに。どうしても見えない。分厚い雨雲がかかっているように。
だってどれでもいい。恋愛感情なら、成就したいと願うものだろう。なのに断られたって、傷つく気がしなかった。それどころか、どうやって静弥を傷つけずに断ろうかと滝川が悩むさまを思い描いて、たまらない気持ちになる。
*お互い以外に大切なものがあって、同じものを大切に想っていて、それ故に引っ掛かって絡まってしまうマサ静です。よろしくおねがいします。

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