息を吸って、吐く。生物として当たり前の行為を、意識しないと忘れそうになる。生物として、当たり前ではない行為をしようとしているからだろうか。
「七緒」
夢と現実の境目がひどくあいまいだ。よく知っている声のはずなのに、知らないひとの声にも聞こえる。こんな海斗の声は知らない。こんな声で呼ばれたことなんてない。熱をはらんだ、こちらまで沸かせるような温度で。
「なんか言えよ」
すこしかさついた手のひらが素肌を探るから、かたく閉じていたまぶたをあけてしまった。感じていた気配よりずっと近くに海斗がいる。不機嫌そうな表情はいつものことだ。だけど七緒にはわかる。その瞳に宿る感情が、決して不機嫌ではないことを。きっと海斗も、同じくらい緊張してくれているのだということを。
目を合わすだけで精一杯で、なんと返せばよいのか本当にわからなかった。自分でも滑稽な気持ちになるのに、まったく言葉が浮かんでこないからかぶりを振った。
「ビビんなよ、嫌ならやめるから」
やめる、という言葉にもっと強くかぶりを振る。
「やだ」
「なにに対してのやだかわかんねぇし」
たしなめるような声はやさしい。
視界がにじむ。好きだといわれたときも、はじめてキスをしたときも、こんな声で名前を呼ばれた。うすい膜で何重にも覆ったこちらの感情を、いとも簡単に突き破ってしまう。
呼吸さえままならないというのに、これ以上どうなってしまうのだろうか。深さを確認しないまま、水の中に飛び込むようなものだ。きっと潜ったまま浮かんでこられない。恐怖と、すこしの好奇心。ダメだとわかっているのに、そちらから目が離せない。
「やめたら、やだよ」
伸ばした手を、海斗が握った。指先にくちびるがふれる。
――あ、大丈夫だ。
根拠なく脳内でそんな声がした。気のせいかもしれないし、やっぱり夢なのかもしれない。
キスして、といおうとしたら、それより早くくちびるをふさがれた。また、視界がにじむ。突き破られたところから、感情がもれだしてしまう。
発情して、されていて、おなじ熱が行き来する。
ずっとほしかった。ずっとずっとほしかった熱が、とめどなく、あふれるように。
ゆだるような感情の海の中。呼吸の仕方を忘れてしまっても、与えられた熱のことは、ずっと忘れないでいられる。
fin.

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